小説Grisaille ― 鈍色に咲く

灰色の空の下、僕はずっと自分の声を探していた。図書館で見つけた、誰かが残した紙片の言葉が、止まっていた時間を呼び覚ます。まだ名前のない色が、鈍色の日々にそっと咲きはじめる。

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カチ。

昨日よりも、はっきりと。

それは、始まりの鐘ではなかった。
勝利の合図でも、救済の音でもなかった。

ただ、止まっていた時計の針が、ほんの一目盛りだけ進んだ音だった。

それで十分だった。

僕は椅子から立ち上がり、窓を開けた。

朝の冷たい空気が部屋に入ってくる。少し湿っていて、少しだけ埃っぽくて、それでも夜よりは軽かった。

遠くで車の音がする。
どこかの部屋でアラームが鳴っている。
街がまた、いつものように動き始めている。

世界の時計は、今日も進んでいる。

でも今朝は、それをただ見送るだけではなかった。

僕の中の時計も、ほんの少しだけ動いた。

まだ追いつけない。
まだ周りと同じ速度では歩けない。
まだ言葉は震える。
まだ声は小さい。
まだ自分の輪郭は曖昧なままだ。

それでも、完全な空白ではない。

机の上には、言葉がある。
胸の奥には、小さな音がある。
昨日見た水たまりの色が、まだ消えずに残っている。

僕は紙片を手に取った。

自分の声を、他人の合唱に溶かしてはいけない。

その言葉を読んで、今度は少しだけ思った。

いつか、自分の声で、誰かにそう言える日が来るかもしれない。

誰にも語れなかった痛みを抱えた人。
押し殺した憧れを恥じている人。
引き裂かれた声を、どこに置けばいいかわからない人。
灰色の世界で、自分には色がないと思っている人。

そんな誰かに。

大丈夫。
世界は、カラフルだった。
ずっと、ほんとはね。

そう語れる日が、いつか来るかもしれない。

そのとき僕は、語り部と呼ばれるのだろうか。

わからない。

今はまだ、そんな名前には遠すぎる。人前で話すことすらうまくできない。歌も、物語も、何も形になっていない。

でも、名前はいつも、先にあるのではないのかもしれない。

歩いているうちに、少しずつ与えられるもの。
語り続けるうちに、いつの間にか背中に宿るもの。

だから今は、まだ名前がなくていい。

僕は、まだ名前のない色を追いかける。

その色が希望なのか、錯覚なのか、まだわからない。
また傷つくための光かもしれない。
手を伸ばした瞬間に消えてしまう、儚い反射かもしれない。

それでも、追いかける。

追いかけなければ、僕はまた空白に戻ってしまう。止まった時計の前で、見ないふりをして、何も望んでいないふりをして、生きているふりをしてしまう。

もう、それは嫌だった。

強くなったからではない。
自信が戻ったからでもない。
答えを見つけたからでもない。

ただ、切実に生きたかった。

僕は机の上の紙をもう一度見た。

Grisaille
――鈍色に咲く

その文字の下に、小さく書き足した。

これは、語り部が生まれる前夜の記録。

書いた瞬間、少しだけ恥ずかしくなった。

大げさだと思った。
痛々しいと思った。
誰かに見られたら、笑われるかもしれないと思った。

けれど、消さなかった。

大げさな言葉の中にしか、救えない自分がいることもある。
痛々しい表現の中にしか、隠れていた真実が出てこないこともある。

感じすぎることは、弱さではない。

その言葉を、僕はまだ完全には信じられない。

でも、信じたいと思った。

信じたいと思えたことが、今はもう、始まりだった。

朝の光が、机の上の紙に触れた。

白い紙の上で、鉛筆の文字が少しだけ銀色に見えた。まるで灰の中に、細い光が差したみたいだった。

世界は、まだ鈍色だった。

けれど、その鈍色の中で、何かが静かに咲こうとしていた。

それは花と呼ぶには小さすぎた。
炎と呼ぶには弱すぎた。
歌と呼ぶには、まだ声が足りなかった。

でも、たしかにそこにあった。

僕の中に。

灰の下に。
止まった時計の奥に。
ページの隙間に。
誰にも見せられなかった夢の続きに。

まだ名前のない色が、静かに息をしていた。

僕はその色を、今度こそ見失わないように、胸の奥へしまった。

隠すためではない。

いつか、誰かに渡すために。

語り部は、まだ生まれていない。

けれど、その前夜はもう、始まっていた。

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