小説甘い毒

婚姻の地へ向かう船の上で、護衛の騎士に心を奪われていく。忠誠と役割、そのあいだで交わした沈黙が、少しずつ熱を帯びていく。杯を分け合った夜から、愛は祝福ではなく、逃れられない毒になった。

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「これを」

ルシアンは受け取らなかった。

「持てません」

「もう持っているくせに」

「これ以上は」

「臆病者」

「はい」

「嫌いよ」

「はい」

けれど二人とも、それが嘘だと知っていた。

ブランシュがもう一度扉を叩く。

ナナリエは押し花を自分の胸元へ戻した。

「入りなさい」

扉が開く。

ブランシュは、部屋の中にルシアンがいるのを見て、一瞬だけ表情を硬くした。

「薬草の確認で参りました」

ルシアンは淡々と言った。

「終わりましたので、失礼いたします」

彼は礼をした。

「王妃陛下」

ナナリエは頷いた。

「ご苦労さま、ルシアン卿」

名に、卿をつけた。

その距離が必要だった。

必要だから、痛かった。

彼が出ていったあと、ブランシュは扉を閉めた。

しばらく何も言わなかった。

ナナリエも、何も言わなかった。

薬草室には、赤い夕暮れだけが残った。

ブランシュが静かに言う。

「姫様」

「王妃よ」

「いいえ」

ブランシュは首を振った。

「今のお顔は、姫様でした」

ナナリエは押し花を握りしめた。

薄い花弁が、手の中で壊れそうになる。

「ブランシュ」

「はい」

「私は、悪いことをしているのかしら」

答えは返ってこなかった。

沈黙が答えだった。

ナナリエは小さく笑った。

「そうね」

窓の外では、夕陽が城の白壁を赤く染めている。

まるで、誰かが花弁を散らしたようだった。

その夜、ナナリエは王の隣で晩餐を取った。

マティアスは穏やかに話し、彼女を気遣い、無理に近づかなかった。

優しい人。

正しい人。

彼女が守らなければならない人。

その優しさが、胸を締めつける。

ナナリエは明るく返事をし、よく食べ、よく笑った。

誰もが安心した。

新しい王妃は、今日も美しく咲いている。

ただ一人、ナナリエだけが知っていた。

その花の奥で、毒が甘く回っていることを。

夜更け。

自室に戻った彼女は、押し花を取り出した。

赤いアネモネ。

薄い花弁は少し折れていた。

ナナリエはそれを唇に近づけた。

花の香りは、もうほとんどしない。

それなのに、薬草酒の甘さを思い出す。

月の舟。
銀の杯。
指先。
名を呼ぶ声。

ナナリエ。

もう一度。

ナナリエ。

もう一度。

ナナリエ。

彼女は花弁を胸に当てた。

「ルシアン」

声に出したのは、それだけだった。

その名は、夜の中で小さく震えた。

祈りに似ていた。

けれど、祈りではなかった。

恋だった。

そして恋は、もう毒だった。

第五章 甘い毒

それから数日、ナナリエはよく咲いた。

朝には白い衣をまとい、王の隣に立った。
昼には庭で子どもたちの話を聞き、赤い花を髪に挿した。
夜には晩餐の席で笑い、誰かの不安をほどくように言葉を選んだ。

新しい王妃は、明るい。

人々はそう言った。

可愛らしい。
親しみやすい。
それでいて、王妃としての芯がある。

まるで赤いアネモネのようだと、誰かが褒めた。

ナナリエはその言葉に、綺麗に笑った。

けれど、そのたびに胸の奥で、黒い芯が熱を持つ。

誰も知らない。

赤い花弁の奥に、夜があることを。

誰も知らない。

その夜には、ルシアンの名が沈んでいることを。

ルシアンは、ますます遠くなった。

彼は王の命に従い、城の警備を整え、騎士たちを率い、ナナリエには必要以上に近づかなかった。

広間で会えば礼をする。

「王妃陛下」

その声は、正しかった。

正しすぎて、刃のようだった。

ナナリエも正しく答える。

「ルシアン卿」

そのたびに、二人だけが少しずつ傷ついた。

ある夜、月が満ちた。

白い月だった。

船の上で見た月に似ていた。
銀の杯に映った月にも似ていた。

ナナリエは眠れなかった。

王妃の部屋は広く、静かで、整っている。
寝台の天蓋には薄い白布がかかり、窓辺には赤いアネモネが飾られていた。

城の者が用意した花だった。

故郷のものではない。

けれど、よく似ている。

赤い花弁。
黒い芯。
可愛らしく、けれど奥に小さな闇を持つ花。

ナナリエはその花を一本抜き取った。

指先で茎を折る。

小さな音がした。

それだけで、胸が痛んだ。

ブランシュが目を覚ます。

「王妃様」

「眠れないの」

「お茶を」

「いいえ」

ナナリエは首を振った。

「少し、礼拝堂へ行くわ」

ブランシュの顔が強張った。

「お一人で?」

「すぐ戻る」

「お供します」

「だめ」

思ったより強い声が出た。

ブランシュは言葉を失う。

ナナリエはすぐに表情をやわらげた。

「ごめんなさい」

「いいえ」

「でも、今夜はひとりで行かせて」

「……姫様」

その呼び方に、ナナリエは目を伏せた。

「私は、もう姫ではないわ」

「それでも、私には」

ブランシュは震える声で言った。

「あなたが、どこかへ行ってしまいそうに見えます」

ナナリエは赤いアネモネを握った。

花弁が少し潰れる。

「どこへも行かないわ」

嘘だった。

ブランシュにも、それはわかっただろう。

けれど侍女は、それ以上止めなかった。

止められないことを、長くそばにいた彼女は知っていた。

ナナリエは薄い外套を羽織り、部屋を出た。

廊下は月明かりで青白い。

壁に掛けられた燭台の火は小さく、影だけが長い。

礼拝堂へ続く回廊の途中で、彼女は足を止めた。

そこに、ルシアンがいた。

待っていたのか。
偶然なのか。

聞く必要はなかった。

二人とも、ここに来ることを知っていた。

「王妃陛下」

ルシアンが礼をする。

ナナリエはその呼び名を聞いて、少し笑った。

「今夜も、そう呼ぶの」

「はい」

「では、私は帰るわ」

そう言って背を向けようとすると、ルシアンの声が追ってきた。

「ナナリエ」

たったそれだけで、足が止まった。

体の奥に、月が落ちる。

ナナリエは振り返らなかった。

「呼んではいけないのでしょう」

「はい」

「なのに」

「今夜で、最後にします」

その言葉は、静かだった。

静かすぎて、残酷だった。

ナナリエはゆっくり振り返る。

ルシアンの顔は、月明かりの中で白く見えた。

「最後?」

「明朝、南の国境へ向かう命を受けました」

ナナリエの指から、アネモネが落ちそうになった。

「いつ戻るの」

「わかりません」

「なぜ、今まで言わなかったの」

「言えば、揺らぐと思いました」

「誰が」

「私が」

ナナリエは笑った。

けれど、声は出なかった。

胸の中で、花弁が一斉に散るような感覚があった。

南の国境。

遠い場所。

戦の気配が残る場所。

戻るかわからない場所。

ルシアンがいなくなる。

正しさのために。
王の命のために。
彼自身の忠誠のために。

ナナリエは、彼がそうするから愛した。

逃げないから。
裏切りきれないから。
名を与えた王を、最後まで守ろうとするから。

だから愛した。

だから届かない。

「あなたは、本当に残酷ね」

ナナリエは言った。

「はい」

「否定しないの」

「できません」

「今夜で最後なら」

彼女は赤いアネモネを胸に押し当てた。

「なぜ私を呼んだの」

ルシアンは答えなかった。

ナナリエは一歩近づいた。

「忘れさせるため?」

もう一歩。

「それとも、忘れられないようにするため?」

ルシアンの喉が動いた。

「どちらも、違います」

「では、何」

「私も、最後に聞きたかった」

「何を」

「あなたが、私を呼ぶ声を」

言葉は、触れるよりも深く入ってきた。

ナナリエは息を吸った。

胸が痛い。

甘い毒が、とうとう心臓まで届いたようだった。

「ルシアン」

彼の目が閉じられる。

その名を受け止めるために。

「ルシアン」

もう一度。

今度は少し近くで。

「ルシアン」

三度目で、彼はわずかに顔を歪めた。

その顔を見た瞬間、ナナリエは悟った。

この人も、同じように沈んでいる。

同じ毒を飲み、同じ月の下で、同じ場所へ落ちている。

ただ、沈み方が静かなだけ。

「行かないで」

言ってはいけない言葉だった。

けれど、もう遅い。

ルシアンは目を開けた。

「それを言われたら、私は」

「困る?」

「壊れます」

ナナリエは笑った。

小さく、泣くように。

「私も、もう壊れているわ」

「いいえ」

「いいえ?」

「あなたは、まだ咲こうとしている」

ルシアンの視線が、ナナリエの手の中のアネモネに落ちた。

「折れても、咲こうとしている」

ナナリエは首を振った。

「違うわ」

花を見つめる。

赤い花弁は潰れ、黒い芯が露わになっている。

「私は、咲いているふりをしているだけ」

「それでも」

「もう疲れたの」

その言葉は、夜に静かに落ちた。

誰にも言ったことがなかった。

明るくいることに疲れた。
可愛らしく返すことに疲れた。
強く見える形を保つことに疲れた。

王妃でいることにも。
姫でいたことにも。
誰かの安心になることにも。

そして何より。

あなたを忘れたふりをすることに、疲れた。

ナナリエは言った。

「私は、あなたと逃げたいわけではないの」

ルシアンは何も言わない。

「王を憎んでいるわけでもない。あの人は優しい。とても優しい。私を傷つけないようにしてくれる」

「はい」

「だから、余計に苦しい」

ナナリエは目を伏せた。

「あなたと生きれば、私は王を壊す。王の隣に生きれば、私は私を壊す」

ルシアンの手が震えた。

「ならば、私が去ります」

「去れば消えるの?」

「消えません」

「でしょう」

二人は見つめ合った。

もう、答えはひとつしか残っていない気がした。

けれど、その答えを言葉にすることは、夜そのものを割ることだった。

ナナリエは、礼拝堂の扉を見た。

その奥には神がいる。

祈り、誓い、赦し。

けれど今夜のナナリエが欲しいものは、どれでもなかった。

「港へ行きたい」

ルシアンの目が揺れた。

「今から?」

「ええ」

「危険です」

「知っている」

「見つかれば」

「見つかる前に戻るわ」

「なぜ、港へ」

ナナリエは月を見上げた。

「舟を見たいの」

ルシアンは、それだけで理解したようだった。

月の舟。

あの夜、二人が杯を分けた船。

まだ港に繋がれている船ではない。
けれど、その横に小さな舟がある。

岸に繋がれ、どこへも行けず、ただ波に揺れている小舟。

ナナリエはその舟のことを、なぜかずっと覚えていた。

「行けません」

ルシアンは言った。

「あなたは王妃です」

「ええ」

「私は王の騎士です」

「ええ」

「ならば」

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