小説甘い毒

婚姻の地へ向かう船の上で、護衛の騎士に心を奪われていく。忠誠と役割、そのあいだで交わした沈黙が、少しずつ熱を帯びていく。杯を分け合った夜から、愛は祝福ではなく、逃れられない毒になった。

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「だから、今夜だけ」

ナナリエは彼の目を見た。

「何も守らないで」

以前、薬草室で言った言葉。

あの時、ルシアンはできないと言った。

今夜もそう言うと思った。

けれど彼は、長い沈黙のあとで、外套を脱いだ。

ナナリエの肩へかける。

船の夜と同じように。

「夜風が冷えます」

それが答えだった。

ナナリエは、泣きそうになった。

けれど泣かなかった。

泣くかわりに、赤いアネモネを胸に抱いた。

二人は城を出た。

秘密の通路を抜け、誰も使わない裏門を通り、月明かりの下を歩いた。

言葉は少なかった。

必要なかった。

石畳を踏む音。
遠くの波。
外套の中に残るルシアンの匂い。
ナナリエの手の中で少しずつ萎れていく花。

それだけが、夜を満たしていた。

港に着くと、海は銀色だった。

船がいくつも眠っている。

帆は畳まれ、縄は湿り、桟橋は月を受けて青白く光っていた。

そして、岸に繋がれた小さな舟があった。

海へ出ることも、陸へ戻ることもできない舟。

波に揺れるたび、木が小さく軋む。

ナナリエはその舟に近づいた。

「似ているわ」

「何に」

「私たちに」

ルシアンは何も言わなかった。

ナナリエは舟へ乗り込む。

ルシアンも続いた。

舟は大きく揺れた。

二人の距離が近づく。

月の光が、ナナリエの白い外套と赤い花を照らす。

舟の底には、古い水が少し溜まっていた。
そこに月が映っている。

揺れるたびに、月は砕ける。

ナナリエは懐から、小さな瓶を取り出した。

ルシアンの表情が変わった。

「それは」

「薬草室から持ってきたの」

「ナナリエ」

「毒ではないわ」

ナナリエはそう言って、少し笑った。

「いいえ。毒ね」

瓶の中には、淡い赤の液体が入っていた。

薬草酒。

あの夜のものとは違う。

ナナリエ自身が調合したものだった。

眠りを深くする薬。
痛みを遠ざける薬。
量を間違えれば、二度と目覚めない薬。

「飲むとは言っていないわ」

「ならば、なぜ」

「持っているだけで、少し安心したの」

「安心?」

「選べると思えるから」

ルシアンは瓶から目を離さない。

「それは、選択ではありません」

「そうね」

ナナリエは頷いた。

「でも、生きているかぎり、私は誰かのものになる」

ルシアンが息を呑む。

「王のもの。国のもの。父の誓いのもの。民の安心のもの」

ナナリエは瓶を見つめた。

「でも、最後の一瞬だけは、私の名をあなたに返せる気がしたの」

ルシアンの顔が苦しげに歪んだ。

「私は、あなたを死へ連れていくために愛したのではありません」

「私も、死ぬためにあなたを愛したのではないわ」

「なら」

「でも、生きていれば、私たちは嘘になる」

波が舟を揺らす。

月がまた砕ける。

ナナリエは赤いアネモネを舟底へ置いた。

花は水に濡れ、赤を少し滲ませる。

「ねえ、ルシアン」

「はい」

「あなたが王を裏切れないから、私はあなたを愛した」

「……はい」

「なのに、そのあなたが王を裏切れないから、私はあなたに届かない」

ルシアンは目を閉じた。

その言葉は、二人の恋そのものだった。

美しくて、残酷で、出口がない。

ナナリエは瓶を開けた。

薬草の甘い香りが、月夜に広がる。

あの夜より、もっと赤い香りだった。

「止めて」

彼女は言った。

ルシアンの目が開く。

「止めてくれたら、私は戻れるかもしれない」

彼は手を伸ばした。

瓶を奪うために。

けれど、ナナリエの指に触れた瞬間、その手は止まった。

触れた指先が震える。

「止めて」

ナナリエはもう一度言った。

声は泣いていた。

「お願い」

ルシアンは瓶を見た。

ナナリエを見た。

月を見た。

そして、ゆっくりと首を振った。

「私は、あなたを止められない」

「どうして」

「私も、戻れないからです」

その答えを聞いた時、ナナリエは初めて静かに笑った。

誰かを安心させるためではない。

可愛らしく咲くためでもない。

ただ、自分の中の黒い芯まで、ようやく光が届いたような笑みだった。

「怖くはないの?」

ルシアンが尋ねた。

ナナリエは頷いた。

「怖いわ」

「なら」

「でも、あなたに名前を呼ばれないまま生きる方が、もっと怖い」

ルシアンの手が、彼女の手を包んだ。

今度は、逃げられない強さで。

けれど、痛くはなかった。

ナナリエは瓶を小さな銀の杯へ注いだ。

いつの間にか持ってきていた杯。

あの夜のものではない。

けれど月を映せば、どの杯も同じに見える。

淡い赤の液体に、舟底の月が揺れた。

ナナリエは杯を差し出す。

「最後に、私を王妃ではなく、姫でもなく、名で呼んで」

ルシアンは杯を受け取った。

彼の唇が震える。

「ナナリエ」

その名が、夜に落ちた。

ナナリエは目を閉じる。

「もう一度」

「ナナリエ」

「もう一度」

「ナナリエ」

三度目の名で、彼女は涙をこぼした。

涙は頬を伝い、外套の襟へ落ちる。

ルシアンは指で拭わなかった。

ただ、見ていた。

その涙まで、彼女のものとして。

彼は先に杯へ口をつけた。

ほんの少し。

それからナナリエへ渡す。

ナナリエは同じ場所に唇を重ねた。

毒は甘かった。

あの夜と同じように。

いいえ。

あの夜よりも、ずっと澄んでいた。

甘く、赤く、静かだった。

「ルシアン」

ナナリエは杯を下ろした。

「はい」

「愛している、とは言わないで」

彼は彼女を見た。

「なぜ」

「言葉にすると、嘘みたいになる」

ルシアンはゆっくり頷いた。

「では、言いません」

「私も言わない」

「はい」

「でも」

ナナリエは、赤いアネモネを拾い上げた。

花はもう、濡れていた。

「目を見れば、わかるでしょう」

ルシアンは答えなかった。

答えのかわりに、彼女の額に自分の額を寄せた。

触れたのは、それだけだった。

けれど、それだけでよかった。

唇よりも深く。
抱擁よりも静かに。
二人の呼吸が、同じ月の下で重なる。

波が舟を揺らす。

岸に繋がれた縄が、小さく鳴る。

小舟はどこへも行けない。

けれど、ナナリエにはもう、それでよかった。

どこへも行けないまま、沈んでいく。

それが、自分たちらしいと思った。

毒はゆっくりと回った。

最初に指先が冷たくなった。

次に、胸の奥が温かくなった。

痛みはなかった。

ただ、眠りに似た重さが、体を包んでいく。

ナナリエはルシアンの手を握った。

「ねえ」

「はい」

「赤いアネモネの花言葉を知っている?」

「いいえ」

「私も知らないわ」

ルシアンが、少しだけ笑った。

本当に少しだけ。

その笑みを見て、ナナリエは幸せだと思った。

これほど罪深い夜の中で、幸せだと思ってしまった。

「でも、きっと」

彼女は続けた。

「可愛いだけじゃない意味があると思うの」

「あなたのように」

「そういうことを、最後に言うのはずるいわ」

「申し訳ありません」

「謝らないで」

「はい」

二人は、ほんの少し笑った。

恋人のように。

罪人のように。

子どものように。

もうすぐ消える灯りのように。

ナナリエは、だんだん海の音が遠くなるのを感じた。

月の光も、少しずつ滲んでいく。

ルシアンの顔だけが近い。

「ルシアン」

「はい」

「私、ちゃんと咲けていたかしら」

彼は彼女の手を握った。

「はい」

「嘘」

「嘘ではありません」

「可愛く?」

「はい」

「強く?」

「はい」

「でも、少しだけ、寂しそうに?」

ルシアンの目が揺れた。

「はい」

ナナリエは満足そうに息を吐いた。

「なら、いいわ」

沈んでいく。

月の舟が。

赤い花が。

甘い毒が。

ナナリエは最後に、ルシアンの声を聞いた。

「ナナリエ」

その名だけで、すべてが足りた。

朝、港の者たちが見つけたのは、岸に繋がれた小さな舟だった。

舟はどこへも行っていなかった。

ただ、底に赤いアネモネの花弁が散っていた。

銀の杯は空だった。

二人の姿はなかった。

海に落ちたのか、月に連れていかれたのか、誰にもわからなかった。

ただその日から、この国では、満月の夜に小舟へ乗ってはいけないと言い伝えられるようになった。

甘い毒を飲んだ恋人たちが、名を呼び合いながら、海の底で眠っているからだと。

けれどブランシュだけは、誰にも言わずに思った。

ナナリエはきっと、最後に泣いたのではない。

咲いたのだ。

誰かのためではなく。

王妃としてでも、姫としてでもなく。

ただ、ナナリエという名の赤い花として。

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