第一章 赤いアネモネ
ナナリエは、赤いアネモネのような人だった。
薔薇ほど重くはなく、椿ほど静かでもない。
もっと近くて、もっとやわらかい。
声をかければ振り向いてくれそうな、可愛らしい明るさがあった。
けれど、赤い花弁の奥には、黒に近い芯がある。
それは、誰にも見せない寂しさだった。
誰にも譲れない本音だった。
一度決めたら、最後まで折れない強さだった。
船が大きく揺れた時、侍女たちは小さく悲鳴を上げた。
銀の水差しが床を滑り、壁に当たって澄んだ音を立てる。
燭台の炎が傾き、部屋の影が一瞬、花弁のように広がった。
ナナリエは窓の外を見た。
夜の海は暗く、どこまでも深い。
白い波だけが、獣の歯のように光っている。
けれど彼女は、わざと声を弾ませた。
「大丈夫。海が少し、拗ねているだけよ」
その一言で、部屋の空気が少し軽くなる。
侍女のブランシュが、胸を押さえながら言った。
「姫様、そのような時にまで冗談を」
「こういう時だからよ」
ナナリエは笑った。
明るく、可愛らしく。
けれど決して、折れないように。
彼女は、そういうふうに咲くことを知っていた。
王マティアスの国へ嫁ぐための船旅は、もう三日目を迎えていた。
故郷の港は、とうに見えない。
母の薬草園も、朝ごとに開けていた白い窓も、季節ごとに飾りを変えた小さな礼拝堂も、すべて水平線の向こうに消えていた。
嫁ぐことは、国を救うことだった。
父の誓いを守ること。
民の不安を鎮めること。
二つの国の争いを終わらせること。
だから、正しい。
正しいことは、いつも少し冷たい。
その冷たさを誰にも悟られないように、ナナリエは明るく振る舞った。
不安そうな者には先に声をかける。
言葉を失った者には花の話をする。
泣きそうな者がいれば、明日の朝食のことを話す。
自分が沈めば、周りも沈む。
それを知っているから、彼女は先に咲く。
たとえ根の先が、冷たい水に浸かっていても。
夕方、ナナリエはひとりで甲板に出た。
風は湿っていた。
潮の匂いと、薬草袋の苦い香りが混ざる。
彼女の髪には、小さな赤い花が挿してあった。
アネモネ。
故郷の庭から持ってきた最後の花だった。
花弁は薄く、風に揺れるたびに今にもほどけそうに見える。
けれど中心の黒い芯だけは、夜を吸い込んだように濃かった。
ナナリエはその花に触れた。
「まだ、咲いていてね」
小さく呟いた声は、波に溶けた。
「その花は、故郷のものですか」
背後から声がした。
低く、少し湿った弦のような声。
振り返ると、ルシアンが立っていた。
王マティアスに仕える騎士。
この船でナナリエを護衛している男。
黒に近い髪。
海風に揺れる外套。
必要なこと以外は語らない、静かな目。
ナナリエは、彼の静けさが少し苦手だった。
にぎやかな人なら、こちらもにぎやかに返せる。
優しい人なら、こちらも優しく返せる。
無遠慮な人なら、軽く笑って受け流せる。
けれどルシアンは、笑い声の後に残る沈黙の方を見ているような人だった。
「ええ。アネモネよ」
ナナリエは答えた。
「赤い花がお好きなのですか」
「好きよ。部屋が明るくなるもの」
「明るいだけの花には見えません」
その言葉に、ナナリエは瞬きをした。
「どういう意味?」
ルシアンは、彼女の髪の花を見ていた。
「花弁は軽いのに、芯が暗い」
ナナリエは少し笑った。
「花にまで失礼なことを言うのね」
「失礼でしたか」
「ええ。とても」
「では、謝ります」
あまりにも真面目な声だったので、ナナリエは本当に笑ってしまった。
ルシアンの口元も、ほんのわずかに緩んだ。
その一瞬が、なぜか胸に残った。
この人も、笑うのだ。
ただし、とても静かに。
まるで月が雲の裏で少しだけ形を変えるみたいに。
二人の間を、風が通り抜けた。
海の向こうでは、月が上がり始めている。
まだ淡く、薄い。
けれど水面には、すでに白い道ができていた。
ナナリエはそれを見つめた。
「月の道みたい」
「あるいは、沈んでいく舟のようにも見えます」
「あなた、見た目よりずっと暗いことを言うのね」
「姫君は、見た目よりずっと明るく振る舞われる」
ナナリエは、笑おうとした。
いつものように。
けれど、その笑みはうまく出てこなかった。
ルシアンは彼女を見ていた。
花でも、髪飾りでも、姫という役目でもなく。
彼女の奥にある、黒い芯の方を見ているようだった。
「姫君」
彼は言った。
「あなたは、明るく咲くのがお上手だ」
ナナリエの指が、髪のアネモネに触れた。
「褒めているの?」
「たぶん」
「たぶん?」
「美しいと思います。けれど」
ルシアンの声が、少しだけ近くなる。
「花の奥まで、光が届いているとは限らない」
息が止まった。
触れられたのは、肌ではない。
なのに、どこかを指先でなぞられたような気がした。
誰にも見せない場所。
自分でも見ないようにしてきた場所。
そこに、声だけが入ってくる。
「……あなたは」
ナナリエは小さく言った。
「変な人ね」
「よく言われます」
「でしょうね」
今度の笑いは、軽くなかった。
胸の奥から、小さくこぼれたものだった。
その違いに、ナナリエ自身が一番驚いた。
彼女はすぐに海へ目を戻す。
見られたくなかった。
この人の前では、いつものように明るく咲けない。
それが恥ずかしかった。
それなのに、少しだけ、楽だった。
「ルシアン」
初めて、名を呼んだ。
呼んだあとで、自分の声が思ったより柔らかかったことに気づく。
彼は目を伏せた。
「はい」
「今の言葉は、忘れて」
「できません」
「なぜ?」
「私が言ったからです」
「本当に変な人」
「それも、よく言われます」
ナナリエは笑った。
けれどその笑いは、誰かを安心させるためのものではなかった。
緊張していた糸が、ほんの少しほどけて、思わず音を立てたようなものだった。
風が強く吹く。
髪に挿したアネモネが揺れた。
赤い花弁が一枚、ほどけて海へ落ちる。
ナナリエは思わず身を乗り出した。
その瞬間、ルシアンの手が彼女の袖を止めた。
「危ない」
触れたのは、袖だけだった。
肌ではない。
それなのに、熱が伝わった。
布越しの指先。
潮の匂い。
薬草の苦さ。
月の白。
低い声。
すべてが、ナナリエの中でひとつに混ざっていく。
ルシアンの手はすぐに離れた。
けれど袖には、まだ熱が残っているようだった。
「ごめんなさい」
ナナリエは言った。
「花弁一枚に、少し慌てすぎたわ」
「大切な花なのでしょう」
「ええ」
「なら、慌ててもよいと思います」
また、変なことを言う。
ナナリエはそう思った。
でも、その変さが嫌ではなかった。
この人は、姫として正しいことを求めない。
王妃になる者として整っていることも求めない。
ただ、ナナリエが花弁一枚を惜しんだことを、そのまま受け取る。
それだけのことが、どうしてこんなに危ういのだろう。
「ルシアン」
「はい」
「あなたの前では、私は少し、困るわ」
「なぜですか」
「うまく咲けないから」
言ってしまってから、ナナリエは目を伏せた。
胸の奥が熱い。
恥ずかしい。
服を脱がされたわけでも、手を取られたわけでもない。
ただ、言葉をひとつ渡しただけ。
それなのに、隠していた肌よりも深い場所を見せてしまったようだった。
ルシアンはしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「咲かなくても、ここにおられます」
その言葉は、甘かった。
甘いから、怖かった。
毒のように。
ナナリエは海を見る。
月の道は、揺れている。
浮かんでいるようにも、沈んでいくようにも見える。
彼女は初めて思った。
この人の前では、沈んでしまうかもしれない。
そして、沈むことを怖いと思いながら、
どこかで少しだけ、望んでしまっている。
夜が深くなる。
船は月の下を進む。
部屋へ戻るまで、ナナリエは一度も明るい冗談を言わなかった。
ブランシュが心配そうに尋ねた。
「姫様、お加減が悪いのですか」
ナナリエは首を振った。
「いいえ」
「では、どうしてそんなお顔を」
ナナリエは答えなかった。
ただ、髪に残ったアネモネに触れた。
赤い花は、まだ咲いている。
けれど花弁は一枚、足りなかった。
それだけのことなのに、胸の奥が甘く痛んだ。
窓の外では、月の光が波に砕けている。
浮かぶように。
沈むように。
ナナリエは小さく息を吐いた。
強くあることよりも、弱さを見つけられることの方が、ずっと怖い。
そして、その怖さには、赤い花の蜜に似た香りがした。