英雄って、たぶん最初から英雄なんじゃない。
怖いとか、痛いとか、無理かもしれないとか。
そういうものを全部抱えたまま、それでも一歩出した人が、あとからそう呼ばれるだけなのかもしれない。
「蒼真」
「今度は何」
「明日の円陣、ちゃんと声出してよ」
「まだやるのか、あれ」
「やるよ。ROUND TABLEだし」
「円卓関係ある?」
「手を重ねると丸くなるじゃん」
蒼真は少し考えて、それから笑った。
「まあ、確かに」
「でしょ」
千夏は譜面を胸に抱えた。
河川敷の草が、風になびいている。
足跡はすぐに消える。
でも、走ったことは体に残る。
指の痛みも。
喉の熱も。
胸に灯った小さな火も。
全部、今日の跡だ。
千夏は小さく呟いた。
「WE’RE……」
蒼真が横で、面倒くさそうに続ける。
「HEROES」
「声ちっさ」
「練習中」
「明日は本気でね」
「はいはい」
夕暮れの風の中で、千夏は笑った。
まだ何者でもない。
まだ仮フロント。
まだ下手くそなギターボーカル。
でも、明日も音を鳴らす。
明日も、誰かを誘いに行く。
明日も、走る。
ROUND TABLEの席は、まだ空いている。
そしてその空席に座る誰かを迎えるために、千夏はもう一度、銀色の聖剣を鳴らすつもりだった。
第三話 黒瀬凛は笑わない
翌朝、瀬名千夏はいつもより早く学校に着いた。
早く着いた理由は、気合いが入っていたからではない。
走ったら、着いてしまっただけだ。
河川敷の草は朝露に濡れていて、足元で小さく光っていた。空はまだ淡い青で、昨日の夕焼けとは違う、洗いたてみたいな色をしている。
千夏はギターケースを背負って、校門の前で息を吐いた。
指先はまだ少し痛い。
昨日の練習の跡が、ちゃんと残っている。
千夏はそれを見て、少し笑った。
痛いのに、嫌じゃない。
擦りむいた膝を、ちょっと誇らしく見る子どもみたいだと思った。
「朝からにやにやしてる」
横から声がした。
千夏が振り向くと、蒼真が立っていた。
眠そうな目。少し乱れた前髪。肩にはギターケース。
「蒼真、早い」
「お前が昨日、黒瀬を誘うって言ったから」
「うん」
「絶対変なことすると思って」
「しないし」
「するだろ」
「しないって」
「じゃあ、最初の一言は?」
千夏は胸を張った。
「黒瀬凛、ROUND TABLEに入って!」
「変だろ」
「なんで!」
「いきなりすぎる」
「でも分かりやすいじゃん」
「人には段階というものがある」
「めんどくさい」
「そこをめんどくさがるから心配なんだよ」
千夏は唇を尖らせた。
蒼真はため息をつきながらも、千夏の左手を見る。
「指、大丈夫か」
「痛い」
「大丈夫じゃないじゃん」
「でも弾ける」
「無理すんな」
「してない」
「昨日もそれ言ってた」
「今日も言う」
蒼真は呆れた顔をした。
でも、その目は少しだけ優しかった。
「黒瀬は、たぶん簡単には入らない」
「分かってる」
「ほんとか?」
「ほんと」
千夏は校舎を見上げた。
二年二組。
黒瀬凛の教室は、東棟の三階にある。
まだ会ったこともない相手なのに、胸が少しざわつく。
上手いベーシスト。
学外でライブハウスに出ている。
去年、軽音部を辞めた。
本気だったのに、周りがついてこなかった。
千夏はその情報を、昨夜ずっと考えていた。
たぶん、凛は冷たい人ではない。
本気だった人だ。
本気だったから、軽いものを嫌う。
本気だったから、期待する前に切る。
本気だったから、傷ついた。
そういう人なのかもしれない。
「じゃあ、どう誘う?」
蒼真が聞いた。
千夏は少し考えてから言った。
「鳴らす」
「結局そこか」
「うん。言葉より早いし」
「お前らしいな」
「褒めてる?」
「半分」
「蒼真の半分、そろそろ足りない」
そんなことを話しながら、二人は教室へ向かった。
午前中の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
数学の先生が黒板に書く数字は、昨日の譜面のコードに見えた。
現代文の教科書の文章は、WE’RE HEROES!!の歌詞に引っ張られて、やたらと壮大に読めた。
昼休み。
千夏は弁当を三分で食べ終えた。
「早すぎ」
向かいの席で蒼真が言う。
「チーターだから」
「自分で認めた」
「今のなし」
「遅い」
千夏は立ち上がった。
「行くよ」
「今?」
「今」
「昼休みに突撃するのか」
「放課後だと逃げられるかもしれない」
「獲物扱いするな」
「獲物じゃない。仲間候補」
「なお悪い」
蒼真は弁当の残りを急いで口に入れ、鞄から小さなピックケースを取り出した。
「何それ」
「一応」
「一応が移った」
「誰のせいだよ」
二人は二組へ向かった。
廊下には昼休みのざわめきが満ちていた。
弁当の匂い。笑い声。机を動かす音。誰かがスマホで流している動画の音。
その全部が、千夏の耳には少し遠く聞こえた。
二組の教室の前に着く。
千夏は扉から中を覗いた。
黒瀬凛は、すぐに分かった。
窓際の一番後ろ。
机に肘をつき、イヤホンを片耳に差している。
黒髪は肩の少し下まであって、毛先だけ軽く外に跳ねていた。制服はきちんと着ているのに、なぜか全体の空気が学校から少し浮いている。
きれいな人だと思った。
でも、近づきやすい感じではない。
周りに何人か女子がいたが、凛は会話に入っていない。
ひとりでスマホの画面を見ている。指先が、机の上で何かのリズムを刻んでいた。
ベースの指だ。
千夏は直感でそう思った。
「行く」
「待て、作戦」
「ない」
「だろうな」
蒼真が止める前に、千夏は教室に入った。
「黒瀬凛!」
教室の中の数人が振り向いた。
凛もゆっくり顔を上げる。
その目は、思ったよりも冷たくなかった。
ただ、温度が低い。
「誰」
「瀬名千夏」
「知らない」
「今日から知って」
蒼真が後ろで小さく頭を抱えた。
凛はイヤホンを外した。
「何の用?」
「ROUND TABLEに入って」
蒼真が小さく「言った……」と呟いた。
凛は一秒、二秒、三秒ほど千夏を見つめた。
そして、口元だけで笑った。
「部活バンドで英雄ごっこ?」
玲奈の予想通りの台詞だった。
千夏は一瞬だけ驚いた。
でもすぐに目を輝かせた。
「ほんとに言った」
「は?」
「玲奈が言ってた通り」
凛の眉が少し動く。
「月森?」
「うん。黒瀬はそう言うって」
「……あの子、余計なことを」
凛はスマホを机に伏せた。
「悪いけど、興味ない」
「まだ何も言ってない」
「言ったでしょ。ROUND TABLEに入ってって」
「うん」
「だから興味ない」
「なんで?」
凛は椅子の背にもたれた。
「軽音部は嫌い」
「なんで?」
「本気じゃない人たちの集まりだから」
その言葉に、周囲の空気が少しだけ固まった。
千夏は黙った。
蒼真も何も言わない。
凛は続ける。
「練習には来ない。来ても喋ってるだけ。曲も決められない。できない理由だけはいくらでも出てくる。文化祭で騒げればいい、思い出作れればいい。そういうの、無理」
「去年の話?」
「そう」
「今年は違うかも」
「どう違うの?」
凛は千夏をまっすぐ見た。
「あなた、上手いの?」
千夏は答えに詰まった。
上手い。
とは言えない。
昨日の自分の音を思い出す。
濁ったエクスカリバー。
外れたコード。
裏返りかけた声。
「下手」
千夏は正直に言った。
凛は少しだけ目を細めた。
「じゃあ無理」
「でも、鳴らす」
「下手なのに?」
「うん」
「何それ」
「下手でも、鳴らす。昨日より今日、今日より明日、ちょっとでも遠くに届くように鳴らす」
千夏は凛の机に手をついた。
「黒瀬は上手いんでしょ」
「だったら?」
「教えて」
「は?」
「あと、入って」
「順番おかしい」
「両方必要」
凛は呆れたように笑った。
「あなた、馬鹿?」
「よく言われる」
「褒めてない」
「分かってる」
「じゃあ帰って」
凛はイヤホンを戻そうとした。
その時、千夏は言った。
「WE’RE HEROES!!」
教室が静かになった。
凛の指が止まる。
「……何?」
「曲名」
「何の」
「十年前のROUND TABLEが残した曲。文化祭でやる予定だったんでしょ」
凛の目が、少しだけ変わった。
さっきまでの温度の低さとは違う。
奥に、何かが隠れた。
「誰から聞いたの」
「岳と玲奈」
「高峰もまだやってるんだ」
「うん。部長だよ」
「向いてなさそう」
「でも残ってる」
凛は黙った。
千夏は続ける。
「玲奈も残ってる。蒼真も来た。私は仮だけど」
「仮?」
「仮フロント」
「何それ」
「私もよく分かんない」
蒼真が後ろでため息をついた。
「自分で言うなよ」
千夏は凛を見た。
「黒瀬もさ、戻ってきてよ」
「戻る?」
「うん。円卓に」
凛の表情が冷たくなった。
「軽く言わないで」
その声は、初めて少しだけ鋭かった。
教室の空気がさらに静かになる。
「私は、遊びでやってる人たちと音を合わせる気はない」
「遊びじゃない」
「昨日始めたばかりの人に何が分かるの」
千夏は何も言えなかった。
それは正しい。
自分は昨日、始めたばかりだ。
ROUND TABLEの過去も知らない。
凛が何に傷ついたのかも知らない。
軽音部がどれだけ壊れたのかも知らない。
それでも。
「分かんない」
千夏は言った。
「分かんないけど、知りたい」
凛の目が、ほんの少し揺れた。
「私、昨日エクスカリバーを弾いた」
凛の表情が変わる。
「鳴ったの?」
「昨日は鳴った。今日はあんまり鳴らなかった」
「……正直だね」
「でも、もう一回弾いたら、ちょっと鳴った」
千夏は自分の左手を見せた。
赤くなった指先。
「痛いけど、嫌じゃない。これ、進んだ跡だから」
凛はその指先を見ていた。
千夏は一歩、前に出る。
「黒瀬が本気だったなら、教えてほしい。本気の音を。私たち、まだ下手だから」
「だったら私が入る意味ないでしょ」
「ある」
「何」
「私たちが、もっと速く走れる」
凛は黙った。
千夏は少し笑う。
「私、すぐ走っちゃうから。たぶん、みんなを置いていく。でもベースがいたら、ちゃんと地面ができる気がする」
「地面?」
「うん。走る場所」