音楽室に、しばらく余韻が残る。
千夏は息を切らしていた。
喉が熱い。
指が痛い。
背中に汗が流れている。
凛は壁際に立ったままだった。
誰も喋らない。
岳も、玲奈も、蒼真も、凛の言葉を待っている。
やがて凛は、ゆっくり口を開いた。
「下手」
千夏は苦笑した。
「うん」
「ギター、荒い」
「うん」
「歌もまだ安定してない」
「うん」
「ドラムは走りすぎ」
「うっ」
岳が胸を押さえる。
「ギター二本目は遠慮しすぎ」
蒼真が目を伏せる。
「……はい」
「キーボードだけ、周りを見すぎて自分の音を殺してる」
玲奈が静かに頷いた。
「うん」
凛は一度、全員を見た。
そして最後に千夏を見る。
「でも」
千夏は息を止めた。
「昨日始めたにしては、逃げてない」
その言葉は、褒め言葉なのか分からなかった。
でも千夏には、十分だった。
「じゃあ、入って」
「話が飛ぶ」
「だって逃げてないって言った」
「それと入るは別」
「でも、聴いてたよね」
「聴くって言ったから」
「指、動いてた」
凛の表情が一瞬固まった。
「見てたの」
「うん」
「歌いながら?」
「見えた」
「余裕あるね」
「ない。でも見えた」
凛は少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
岳がここぞとばかりに言う。
「凛、ベース持ってきてんじゃん」
「これは放課後ライブハウスに行くから」
「その前に一回だけ合わせようぜ」
「嫌」
「即答かよ」
千夏は凛に近づいた。
「一回だけ」
「嫌」
「仮で」
「仮でも嫌」
「仮仮で」
「何それ」
「仮より軽い」
凛は呆れたように千夏を見た。
「あなた、ほんとに馬鹿なの?」
「よく言われる」
「それ、免罪符じゃないから」
「知ってる」
千夏はエクスカリバーを抱えたまま、まっすぐ凛を見た。
「でも、黒瀬のベースが入ったら、今より絶対走れる」
「走れるって何」
「音が」
「意味分からない」
「私も上手く言えない。でも、今はまだ足元がふわふわしてる。黒瀬が入ったら、地面ができる気がする」
凛は黙った。
千夏は続ける。
「草原みたいなやつ」
「余計分からない」
「分かんなくてもいいから、一回だけ」
凛は深くため息をついた。
それは、折れた音だった。
「……一回だけ」
千夏の顔が明るくなる。
「ほんと?」
「一回だけ。入るわけじゃない。仮でもない。ただ合わせるだけ」
「じゃあ、仮仮未満」
「黙って」
凛はベースケースを下ろした。
黒いソフトケースのファスナーを開く。
中から現れたのは、深い青のベースだった。
夜の海みたいな色。
千夏の銀色のエクスカリバーとは対照的だった。
凛がストラップを肩にかける。
その瞬間、空気が変わった。
岳がにやりと笑う。
玲奈の目が少しだけ細くなる。
蒼真が緊張したようにギターを構え直す。
千夏は胸が高鳴るのを感じた。
席が埋まる。
円卓の、空いていた席に、誰かが座ろうとしている。
まだ仮でもない。
でも、確かに近づいている。
凛はチューニングを手早く済ませた。
指の動きが綺麗だった。
無駄がない。
静かで、速くて、正確。
千夏は思わず見とれた。
「何」
「かっこいい」
「やめて」
「ほんとに」
「始めるよ」
凛は岳を見た。
「テンポ、さっきより落として。走ると全部崩れる」
「了解」
次に蒼真を見る。
「あなたは千夏の音を追いすぎ。横に並ぶなら、自分の位置を決めて」
「……はい」
玲奈には、
「Bメロ、もっと前に出ていい。あそこは鍵盤が道を作るところ」
玲奈が小さく頷く。
最後に、凛は千夏を見た。
「あなたは、歌う時に右手が弱くなる」
「え」
「声に意識が行って、ギターが逃げる。フロントなら逃げないで」
その言葉は鋭かった。
でも、不思議と嫌ではなかった。
ちゃんと聴いていたから言える言葉だった。
千夏はエクスカリバーを握った。
「分かった」
「分かってないと思うけど」
「ひどい」
「でも、やって」
千夏は笑った。
「うん」
岳がカウントを取る。
カン、カン、カン、カン。
凛のベースが入った。
低い音が、音楽室の床を震わせた。
千夏は思わず息を呑む。
地面だ。
本当にそう思った。
さっきまでふわふわしていた音が、急に足場を得た。
岳のドラムが前に進む道になり、玲奈のキーボードが空を開き、蒼真のギターが横を走る。
そして千夏は、その上を駆け出せる。
エクスカリバーを鳴らした。
今度は、音が抜けた。
さっきよりも確かに。
銀色の音が、凛の青い低音の上を走る。
千夏は歌った。
風になびく草原 足跡残し進む
自分の声が、さっきより遠くに届く。
凛のベースが支えている。
ただ低い音を出しているだけじゃない。
千夏が走れる場所を作っている。
サビに入る頃には、千夏の胸は熱くて仕方なかった。
これだ。
これが、バンドだ。
ひとりでは行けない場所へ、音が連れていってくれる。
千夏は叫ぶ。
「WE’RE HEROES!!」
最後の音が鳴り終わった瞬間、音楽室は静まり返った。
さっきとは違う沈黙だった。
岳が最初に声を出した。
「……今の、よくね?」
玲奈が頷く。
「全然違う」
蒼真も息を吐いた。
「ベースって、すごいんだな」
凛は何も言わなかった。
ただ、自分のベースの弦を軽く押さえている。
千夏は凛に駆け寄った。
「今の!」
「近い」
「今の、すごかった!」
「近いって」
「地面できた!」
「だから意味分からない」
「でもできた!」
凛は面倒くさそうに顔を逸らした。
その耳が、少し赤い気がした。
「一回だけって言ったから」
「もう一回」
「嫌」
「お願い」
「嫌」
「黒瀬」
「嫌」
「凛」
その名前で呼んだ瞬間、凛が千夏を見た。
千夏はまっすぐに言った。
「もう一回、一緒に走って」
凛は黙った。
音楽室の外では、放課後の風が窓を揺らしている。
凛は長い沈黙のあと、小さく息を吐いた。
「……次で最後」
千夏は笑った。
「うん!」
岳がスティックを掲げる。
「よし、仮仮未満ベース入りROUND TABLE、二回目!」
「その呼び方やめて」
凛が言った。
でも、ベースを下ろしはしなかった。
千夏はマイクの前に戻る。
エクスカリバーを構える。
指先は痛い。
喉も熱い。
でも、怖さよりも早く、胸が走り出している。
岳がカウントを鳴らす前に、千夏は言った。
「ねえ」
全員が見る。
千夏は右手を前に出した。
「もう一回、円陣」
凛が即座に言った。
「私はやらない」
「まだいい」
千夏は笑った。
「でも、いつかね」
凛は答えなかった。
岳、玲奈、蒼真が手を重ねる。
千夏はその中心に、自分の手を重ねた。
そして叫ぶ。
「WE’RE——!」
岳と玲奈と蒼真が返す。
「HEROES!!」
少し離れた場所で、凛は呆れた顔をしていた。
でも千夏には、見えた。
凛の唇が、ほんの少しだけ動いたことを。
声にはならなかった。
でも、たぶん。
HEROES。
そう言った。
千夏は笑った。
まだ英雄じゃない。
まだ仲間でもない。
まだ席に座ったわけでもない。
それでも、円卓の空席に、少しだけ風が吹いた。
そしてその日、ROUND TABLEの音は、初めて地面を得た。