「では、何を鳴らせば……」
ケルは突然、歌詞の断片を思い出した。
二つの世界を繋ぐ歌声。
鳴らす者。
鐘を鳴らす者ではない。
音を鳴らす者。
歌う者。
彼はエリアを見た。
エリアも気づいたようだった。
「ケル」
「歌だ」
「歌?」
「僕の詩を、君が歌って」
エリアは目を見開いた。
「私が?」
「鳴らす者は、たぶん君でもある。選ぶ者で、鳴らす者」
「でも、私、そんな……」
「大丈夫」
ケルは手帳を開いた。
ページには、まだ完成していない言葉が並んでいる。
怖いから、一緒に歩く。
運命は未完成。
愛が創る。
未来は読むものではない。
描くもの。
詩と呼ぶには粗い。
祈りと呼ぶには幼い。
予言と呼ぶにはあまりに個人的だった。
けれど、それはケル自身の言葉だった。
父や祖父や古代の誰かが記したものではない。
ケルが今、エリアと共に選び取った言葉だった。
「僕が書く」
ケルは言った。
「君が歌って」
エリアは一度だけ深く息を吸った。
それから、強くうなずいた。
「わかった」
父が手を振り下ろす。
青白い光が二人へ襲いかかる。
祖父が間に立ち、杖で光を受け止めた。
「急げ!」
司祭が手鐘を鳴らし続ける。
りん。
りん。
りん。
その澄んだ音が、エリアの声のための道を作るように広がっていく。
ケルは手帳に書いた。
手が震える。
文字は歪む。
でも止まらない。
未来は混沌かもしれないが、共に歩もう。
エリアがその言葉を見た。
そして、歌い始めた。
最初は小さな声だった。
震えていた。
けれど、その声は青白い光に消されなかった。
むしろ、光の中へ細い金色の糸を通していく。
「未来は混沌かもしれないが、共に歩もう」
その旋律は、どこか懐かしかった。
丘の風のようで、教会の鐘のようで、まだ見ぬ明日の朝のようでもあった。
ケルは次の行を書く。
古い予言は、ただの物語。
エリアが歌う。
「古い予言は、ただの物語」
青白い円環が軋む。
父の表情が険しくなる。
「やめろ」
ケルは書く。
我らの手で、未来を描け。
エリアの声が強くなる。
「我らの手で、未来を描け」
その瞬間、地下広間の壁に刻まれた古代文字が、次々と金色に変わっていった。
祖父が呟く。
「書き換えている……」
父が叫んだ。
「予言を詩で上書きするつもりか!」
ケルは父を見た。
「違う」
彼は羽ペンを握りしめた。
「予言を、未完成に戻すんだ」
エリアが次の旋律を紡ぐ。
ケルは書いた。
運命は未完成、愛が創る。
エリアはその言葉を、祈りのように歌った。
「運命は未完成、愛が創る」
その歌声が広間いっぱいに広がった。
青白い光の柱に、金色の亀裂が入る。
透明な円環に映っていた一本の固定された未来が、ばらばらにほどけていく。
笑う未来。
泣く未来。
間違える未来。
許し合う未来。
別れそうになって、それでも手を伸ばす未来。
村が傷つき、皆で直す未来。
無数の可能性が戻ってくる。
それは美しく、恐ろしく、あまりにも自由だった。
父は後ずさった。
「やめろ……そんなものは不安定だ。そんな未来では、また失う」
ケルは父を見た。
父の顔は、初めて年相応に見えた。
未来の番人でも、時を固定する者でもない。
ただ、失うことを恐れた一人の父だった。
ケルの胸が痛んだ。
「父さん」
父は首を振った。
「私は、お前を失いたくなかった」
「うん」
「お前の母を泣かせたくなかった」
「うん」
「村を、壊したくなかった」
「うん」
ケルは涙をこらえながら言った。
「でも、僕たちは固定された未来じゃなくて、父さんと生きたかった」
父の瞳から、青白い光が揺らいだ。
一瞬だけ、本来の色が戻ったように見えた。
深い灰色の瞳。
ケルと同じ色。
父は震える声で言った。
「ケル……」
その時、装置の中心が大きく軋んだ。
固定されかけていた未来がほどけた反動で、青白い光が暴走し始めた。
祖父が叫ぶ。
「装置が崩れる!」
床に亀裂が走る。
天井から石片が落ちる。
司祭の手鐘が弾き飛ばされた。
エリアがケルにしがみつく。
父は振り返り、装置を見た。
「まだ間に合う」
祖父が叫んだ。
「ライネル、何をする!」
父はケルを見た。
その顔は、先ほどまでとは違っていた。
恐怖はまだある。
後悔もある。
でも、青白い光だけではなかった。
「未来を固定するためではない」
父は言った。
「未来を解放するために」
彼は装置の中心へ歩き出した。
ケルは叫んだ。
「父さん!」
父は振り返らなかった。
「お前は戻れ。今度は、私が過去に残る」
「嫌だ!」
ケルは駆け出そうとした。
だが祖父が彼を押さえた。
「行くな!」
「離して!」
父は光の柱の中に立った。
円環が彼の周りで激しく回る。
青白い光が父の身体を飲み込んでいく。
その中で、父は初めて、ケルが記憶の中で探し続けていたような顔で笑った。
優しくて、少し不器用な父の顔。
「ケル」
「父さん!」
「未来は、怖いな」
ケルは涙で顔を歪めた。
「怖いよ!」
「それでいい」
父は言った。
「怖くても、手を離すな」
エリアがケルの手を握っていた。
ケルはその手を握り返した。
父はうなずいた。
そして、最後に祖父を見た。
「父上」
祖父の顔はくしゃくしゃに歪んでいた。
「馬鹿息子が」
父は笑った。
「はい」
その声は、光に溶けた。
次の瞬間、装置の中心から金色の火が広がった。
青白い円環が砕ける。
固定されかけた未来が解き放たれ、星のように広間の天井へ舞い上がっていく。
ケルはその光の中で、無数の未来を見た。
どれも確定していない。
どれも不完全だった。
けれど、その不完全さが、奇跡のように美しかった。
地下広間が崩れ始める。
祖父が叫んだ。
「走れ!」
ケルはエリアの手を引いた。
司祭を祖父が支え、四人は扉へ向かって走る。
背後で、父のいた光がゆっくりと閉じていく。
ケルは振り返りそうになった。
だが、エリアが叫んだ。
「ケル!」
彼は前を向いた。
今を見る。
手を離さない。
四人は崩れる階段を駆け上がった。
壁の古代文字が金色に燃え、灰のように消えていく。
遠くで、教会の大鐘が最後に一度だけ鳴った。
ごおん。
それはもう、未来を固定する音ではなかった。
夜明けを告げる鐘のようだった。