小説Future Chronicle

―未完の予言詩―

未来がすべて記された年代記の世界で、僕は少女エリアと出会った。決められた結末を書き換えようとした瞬間、僕自身の未来にも知らない代償が刻まれはじめる。誰かに決められた明日ではなく、大切な人と選び取る“これから”のための物語。

16 / 18

ただ、森の奥からこちらを見ている。

「未来を見る力は、まだあなたの中に残っています」

ケルは黙った。

どこかで、わかっていた。

未来年代記を閉じたからといって、完全に消えたわけではない。
ページの音は遠くなったが、耳を澄ませばまだ聞こえるかもしれない。

「使いますか」

女王が尋ねた。

ケルは答える前に、考えた。

未来を見る力。

それは危うい。
人を救うこともある。
人を縛ることもある。

橋を救ったのも、その力だった。
父を狂わせたのも、その力だった。

力そのものが善悪なのではない。
何を恐れて開くのか。
何のために使うのか。

「必要なら」

ケルは言った。

「でも、怖いから開くのはやめます」

女王は首を傾げた。

「怖くなくなる日が来ると?」

「来ないと思います」

「では?」

「怖い時は、まず誰かに言います」

女王は黙った。

ケルは続けた。

「エリアに。祖父に。村の人に。僕一人で未来を決めない」

銀の森の霧が、静かに揺れた。

女王は微笑んだ。

「人の子は、時々おもしろい答えを選びます」

「褒めてます?」

「ええ。少しだけ」

「少しだけか」

女王は白馬の手綱を引いた。

「古い予言は、完全には消えません。人はこれからも未来を恐れる。星に尋ね、書物に縋り、誰かに答えを求めるでしょう」

「はい」

「けれど、あなたは知った」

女王の声が、森に深く響いた。

「未来は、予言でしかない」

ケルはうなずいた。

「未来は、創るものです」

女王の瞳に、星が瞬いた。

「その言葉を、詩にしなさい」

「もう書き始めています」

「完成しますか」

ケルは少し笑った。

「たぶん、ずっと未完成です」

「なぜ?」

「生きている限り、続きを書くから」

女王は満足そうに微笑んだ。

「ならば行きなさい。未完成の者。あなたの年代記は、まだ白紙です」

「あなたは?」

「私は、森にいます。人が未来を恐れ、扉を求める限り」

「また会いますか」

「あなたが、未来を答えとして求めるなら」

ケルは首を振った。

「なら、しばらく会わないと思います」

女王は、初めて声を立てて笑った。

その笑い声は、銀の鈴のように森へ広がった。

「それでよいのです」

白馬が霧の中へ歩き出す。

女王の姿が薄れていく。

最後に、彼女は振り返らずに言った。

「愛する者を守るとは、その者の未来を信じること」

ケルは目を閉じた。

次に目を開けると、朝だった。

窓の外では、ロゼリアの村が目覚め始めていた。

パンの匂いがした。

昨日、水路が戻ったからだ。

ケルは起き上がり、机の上の手帳を見た。

赤いリボンが結ばれている。

彼は手帳を開き、夢の中で女王に言われた言葉を書いた。

愛する者を守るとは、その者の未来を信じること。

それから少し考えて、下にもう一行書いた。

そして、自分の未来も。

窓の外から、エリアの声がした。

「ケル! 起きてる?」

ケルは窓を開けた。

エリアが下に立っていた。
指には銀の指輪。
髪には新しい布で結んだ小さなリボン。

「起きてる」

「今日、教会の片付け手伝うって言ったよね」

「言った」

「じゃあ早く」

「今行く」

「手帳、忘れないで」

ケルは笑った。

「忘れない」

手帳を胸元に入れる。

赤いリボンが少しだけ覗いた。

ケルは部屋を出る前に、もう一度机に向かった。

未完の詩の最後に、こう書いた。

それは誰のものだろう。
未完の楽譜。
空白の詩行。
開かれた書物のごとく。
それは、我々自身の手で描くもの。

彼は羽ペンを置いた。

詩はまだ完成していない。

でも、今はそれでよかった。

ケルは外へ出た。

朝の光の中で、エリアが待っていた。

「遅い」

「ごめん」

「また詩?」

「うん」

「完成した?」

ケルは首を振った。

「まだ」

エリアは笑った。

「じゃあ、続きを待ってる」

ケルは彼女の隣に並んだ。

二人は、壊れた教会へ向かって歩き始めた。

未来は見えなかった。

だからこそ、空は広かった。

そしてその空白には、二人の足音が、確かに書き込まれていた。

終章 Future Chronicle

ロゼリアの教会が修復されるまで、三月かかった。

完全に元通りになったわけではない。

鐘楼には、あの夜の亀裂が薄く残った。

石工たちはできる限り補強したが、古い石に刻まれた傷をすべて消すことはできなかった。

けれど司祭は、それでいいと言った。

「傷のない祈りなど、どこか嘘くさい」

その言葉を聞いて、村人たちは笑った。

教会の大鐘は、しばらく鳴らされなかった。

あの夜、未来を固定しようと鳴り続けた鐘。

村人たちの中には、もうあの音を聞きたくないという者もいた。

だが、春の初め。

修復が終わった日、司祭は皆を広場に集めた。

「この鐘は、恐れのために鳴った」

司祭は言った。

「だが、恐れのためだけに残す必要はない。今日からこの鐘は、終わりではなく、始まりを告げるために鳴らす」

村人たちは、静かに鐘楼を見上げた。

ケルもその中にいた。

隣にはエリアがいる。

彼女の指には、母の銀の指輪が光っていた。

鐘が鳴った。

ごおん。

その音を聞いた瞬間、ケルの身体はわずかに強張った。

地下の青白い光。

父の声。

崩れる円環。

未来を閉じ込めようとした鐘の響き。

それらが一瞬、胸の奥で目を覚ました。

けれど次の瞬間、エリアの手がそっと彼の手に触れた。

ケルは彼女を見た。

エリアは何も言わなかった。

ただ、ここにいる。

それだけで十分だった。

鐘の音は、空へ広がっていく。

恐ろしい音ではなかった。

悲しい音でもなかった。

古い傷を忘れさせる音ではなく、傷を抱えたまま進んでいいと告げる音だった。

ケルは目を閉じた。

未来の光景は見えなかった。

ただ、風が吹いていた。

ロゼリアの丘から来る風だった。

⸻

その日の夜、教会の広間で小さな祝いが開かれた。

壊れた場所を直した記念。

村が生き延びた記念。

そして、ケルとエリアの婚約を祝う記念でもあった。

「ついでみたいに言わないでほしい」

ケルがそう言うと、エリアは笑った。

「村の修復と一緒に祝われるなんて、縁起がいいじゃない」

「そうかな」

「壊れても直せる夫婦ってことで」

「最初から壊れる前提?」

「壊れないものなんてないでしょ」

エリアはそう言って、パンを半分に割り、片方をケルに渡した。

その言葉は、以前なら少し怖かったかもしれない。

壊れる。

終わる。

失う。

ケルはそういう言葉を、できるだけ避けたかった。

けれど今は、少し違った。

壊れることがある。

でも、直すこともできる。

傷が残ることがある。

でも、そこから別の形に育つこともある。

未来は、壊れない約束ではなく、直し続ける意志なのかもしれなかった。

広間の中央では、村人たちが輪になって踊っていた。

子どもたちは笑い、大人たちは歌い、老人たちは壁際でその様子を見守っている。

祖父は暖炉の近くに座っていた。

膝の上には古い杯。

顔には疲れが残っているが、以前より少しだけ柔らかく見えた。

ケルはパンを持ったまま、祖父の隣に座った。

「疲れた?」

「老人に愚問をするな」

「それ、疲れてるってこと?」

「とても疲れている」

ケルは笑った。

祖父も、ほんの少し笑った。

しばらく二人は、踊る村人たちを眺めていた。

やがて祖父が言った。

「未来年代記のことだが」

ケルの表情が少し引き締まる。

「うん」

「封じる場所を変えようと思う」

「祖父の家じゃなく?」

「私の家にある限り、お前は近すぎる」

ケルは否定しようとして、やめた。

たしかに、あの本はまだ彼を呼ぶことがある。

夜、疲れている時。

不安になった時。

エリアと些細なことで言い合った時。

一瞬だけ、思ってしまう。

この先を見られたら。

間違える前に、正解がわかれば。

そのたびに、ケルは手帳の赤いリボンに触れる。

怖いから、一緒に歩く。

それでも、本が近すぎるのはよくない。

「どこへ?」

「教会の地下ではない。あそこはもう閉じた。銀の森の奥に、古い石室がある」

ケルは祖父を見た。

「妖精の領分に?」

「人の手だけで持つには、重すぎる本だ」

祖父は杯を見つめた。

「だが、完全に捨てることもできん。未来を見なければ救えない時もある。橋のようにな」

ケルはうなずいた。

「使い方を間違えなければ」

「そうだ」

祖父は彼を見た。

「お前は、もう少し間違えるだろう」

「え」

「人は一度学んだくらいで賢くはならん」

「ひどい」

「だが、お前は戻ってくる道を少し知った」

祖父は、ケルの胸元の手帳を指差した。

「その小さな本を、大きな本より先に開け」

ケルは手帳に触れた。

「うん」

「それから、人の顔を見ろ」

「うん」

「特にエリアの顔を」

「それは、毎日見ると思う」

祖父は鼻を鳴らした。

「なら、見えていると思い込むな」

ケルは少し黙った。

その言葉は、深く残った。

近くにいる人ほど、見えていると思ってしまう。

未来ばかりではない。

日常もまた、人を見えなくする。

当たり前に隣にいると思った瞬間、その人の声を聞き逃す。

「わかった」

祖父は頷いた。

「ならいい」

ケルはしばらくしてから、小さく聞いた。

「父さんのこと、母さんにはどう伝えればいいかな」

母は今、遠い親戚の家で療養している。

災害のあと、すぐには戻ってこられない。

父が生きていたこと。

予言に飲まれていたこと。

最後に未来を解放したこと。

どう伝えればいいのか、ケルにはわからなかった。

祖父は長い間、火を見つめていた。

「真実を、全部一度に渡す必要はない」

「隠すの?」

「違う。相手が受け取れる形にする」

祖父は静かに言った。

「お前がエリアに予言を話す時に学んだことと同じだ」

ケルはうなずいた。

「母さんは、父さんのことをまだ……」

「愛しているかもしれない。憎んでいるかもしれない。その両方かもしれない」

祖父は杯を置いた。

「人の心を、お前が先に決めるな」

その言葉は、ケルの胸に沈んだ。

「うん」

祖父は少し疲れたように笑った。

「今夜は祝いだ。難しいことは明日にしろ」

「祖父が言い出したんだけど」

「老人は勝手なものだ」

ケルは笑った。

その時、エリアが広間の向こうから手招きした。

「ケル!」

「何?」

「踊るよ」

ケルは固まった。

NOVEL 一覧へ