白く、薄く、まるで夢の中で誰かが残した爪痕のような月だった。
ケルは古びた手帳を開いた。
怖いから、一緒に歩く。
彼はその言葉を書き留めようとした。
その時だった。
丘の向こうの銀の森が、淡く光った。
最初は月の光かと思った。
けれど違った。
木々そのものが、内側から光っていた。
葉の一枚一枚が銀の鱗のように震え、枝は夜空へ伸びる古い文字のように絡み合っている。
風が止まった。
鳥の声も、虫の声も、遠くの村のざわめきも消えた。
世界が、息を止めた。
ケルは立ち上がった。
森の奥で、何かが動いた。
白い影。
それは霧の中から現れた。
一頭の白馬だった。
蹄は草を踏んでいるはずなのに、音がしなかった。
その背には、女が乗っていた。
月光で織られたような髪。
星の底を覗いたような瞳。
白い肌は雪のようで、唇だけが熟れた果実のように赤かった。
女が微笑むと、ケルは自分の名前を忘れそうになった。
「詩人の子」
声は遠い鐘のようだった。
「あなたは、未来を知りたいのですね」
ケルは逃げることも、叫ぶこともできなかった。
喉が、勝手に答えた。
「知りたい」
女は白馬を進めた。
「未来を知る者は、未来に縛られる」
「それでも」
「愛する者の涙を見ることになっても?」
エリアの顔が浮かんだ。
笑っている顔。
怒っている顔。
小指を絡めた時の、ほんの少し照れた顔。
村へ帰っていく背中。
ケルは唇を噛んだ。
「知っていれば、守れるかもしれない」
女は静かに笑った。
「人は皆、そう言う」
彼女は馬上から身をかがめ、ケルの額に触れた。
指先は氷のように冷たく、炎のように熱かった。
「ならば、書物を開きなさい」
「書物?」
「あなたの血が、すでに鍵を知っている」
銀の森の奥から、ページがめくられるような音がした。
ざわり。
ざわり。
世界の裏側で、巨大な本が開かれていく音。
女は言った。
「ロゼリアの未来年代記。
それはあなたを待っています」
ケルの胸が高鳴った。
祖父の家の奥にある、鍵のかかった部屋。
その部屋に眠る古い書物。
幼い頃から、決して触れてはならないと言われていたもの。
古の予言書。
「僕に、読めるの?」
「読むのではありません」
女は微笑んだ。
「見るのです。まだ起きていないものを」
月が近づいたような気がした。
丘も、村も、空も、すべてが薄い膜の向こう側へ遠ざかっていく。
ケルは最後に、村のほうを見た。
小さな灯りがあった。
エリアの家の窓に灯る、ひとつの光。
帰ってきてね。
彼女の声が、風のない丘に残っていた。
帰るよ。
約束。
そう言ったはずなのに。
白馬の女が手を差し出した。
「来なさい、詩人の子。
未来の扉は、恐れる者にこそ開かれる」
ケルは、その手を取ってしまった。
次の瞬間、銀色の光が世界を満たした。
丘も、村も、エリアの灯りも消えた。
草の上には、ケルの手帳だけが残された。
開かれたページには、書きかけの一行があった。
怖いから――
その先は、まだ空白だった。
第二章 古の予言書
ケルが目を覚ました時、空はまだ夜だった。
いや、夜なのかどうかもわからなかった。
頭上には星があった。
けれどそれは、いつもロゼリアの丘で見上げていた星ではなかった。
星々は空に散らばっているのではなく、まるで水の中に沈んでいるように揺らめいていた。
青く、白く、金色に。
その光は波となり、波は文字となり、文字はまた星へほどけていく。
ケルは、自分が草の上に倒れているのだと思った。
けれど手のひらに触れているのは草ではなかった。
冷たい石だった。
彼はゆっくりと身を起こした。
そこは、広い円形の広間だった。
壁も天井も見えない。
ただ、闇の中に無数の柱が立っていた。
柱には古い文字が刻まれ、淡い銀の光を放っている。
足元には水が薄く張っていた。
踏むたびに、星のような波紋が広がる。
「ここは……」
自分の声が、ずっと遠くから返ってきた。
ここは。
ここは。
ここは。
ケルは息を呑んだ。
その時、広間の奥に灯りが見えた。
燭台の火ではない。
月でもない。
一冊の本が、光っていた。
それは石の台座の上に置かれていた。
表紙は黒い革で覆われている。
だが、ただの革ではなかった。
夜そのものを剥いで張ったような、深く、底のない黒。
縁には古びた金の装飾が施され、中央には円環の紋章が刻まれていた。
円環の内側には、一本の樹。
その根は星へ伸び、枝は地下へ沈んでいる。
上下が逆さまの樹。
ケルはその紋章を知っていた。
祖父の家の奥、鍵のかかった扉に彫られていたものと同じだった。
「未来年代記……」
つぶやいた瞬間、本の表紙がわずかに震えた。
まるで、名前を呼ばれた獣が目を覚ましたように。
ケルは後ずさった。
「恐れるのですか?」
背後から声がした。
振り返ると、白馬の女がそこにいた。
丘で見た時と同じ姿だった。
銀の髪。
赤い唇。
夜を宿した瞳。
ただし、白馬はいなかった。
女は水面の上を歩いていた。
その足元には波紋ひとつ立たなかった。
「あなたが望んだのでしょう。未来を知りたい、と」
「ここはどこなんですか」
「書物の内側」
ケルは眉をひそめた。
「本の中?」
「未来を記した書物は、紙だけでできているわけではありません。記憶、恐れ、願い、後悔。人がまだ選んでいないものたちが積もり、形を持った場所」
女は台座のほうへ視線を向けた。
「それがここです」
ケルは唇を湿らせた。
「あなたは、妖精の女王なのですか」
女は少しだけ微笑んだ。
「人は、名を与えなければ安心できないのですね」
「違うんですか」
「違いません。けれど、それだけでもありません」
彼女はケルの近くまで歩いてきた。
「ある者は私を、銀の森の女王と呼ぶ。ある者は時を編む者と呼ぶ。ある者は、運命の番人と」
「運命……」
その言葉が、広間の中で冷たく響いた。
ケルは本を見た。
「この本には、本当に未来が書かれているんですか」
「書かれている未来もあります」
「書かれていない未来も?」
女王は答えなかった。
沈黙が、答えのようだった。
ケルは台座へ近づいた。
一歩。
また一歩。
水面に、自分の顔が映った。
けれど、そこに映る少年はケルではなかった。
いや、ケルだった。
だが少し大人びていた。
頬は痩せ、目の下には深い影があり、唇は何かを言い損ねたまま固く閉ざされている。
その背後で、誰かが泣いていた。
エリア。
ケルは水面を蹴った。
映像が砕ける。
「今のは何ですか」
「あなたが恐れているもの」
「未来ではない?」
「恐れと未来は、よく似た顔をしています」
女王は静かに言った。
「だから人は、しばしば見間違える」
ケルの胸がざわついた。
「僕は……エリアを守りたいだけです」
「守るとは?」
「傷つかないようにすること」
「では、彼女の選択も、彼女の痛みも、彼女自身の未来も、すべてあなたが管理するのですか」
ケルは言葉に詰まった。
そんなつもりではない。
だが反論しようとすると、言葉が見つからなかった。
女王は本のそばに立った。
「開きなさい」
ケルは息を止めた。
「これを?」
「あなたは選ばれたのではありません」
女王は言った。
「あなたが望んだから、扉が開いたのです」
「選ばれたんじゃない?」
「ええ」
「でも伝説では、選ばれし者が予言書を読み、村を救うと……」
「人は、自分の恐れに物語を着せるのが好きです」
女王は本の表紙に指を置いた。
「災いが怖い。未来が怖い。だから、誰かが選ばれていることにしたい。誰かが救ってくれると信じたい」
ケルは本を見つめた。
表紙の黒は、どこまでも深かった。
「では、僕は何のためにここへ?」
「知るために」
「何を」
「未来を知る者が、未来に勝てるとは限らないということを」
女王の言葉が終わると同時に、本が開いた。
風が吹いた。
広間の中にあるはずのない風だった。
ページがひとりでにめくられていく。
ざわり。
ざわり。
ざわり。
その音は、森の葉擦れにも、波の音にも、誰かの囁きにも似ていた。
ページには文字が書かれていた。
鳥の骨のような線。
枯れた蔓のような曲線。
星座を砕いたような記号。
ケルはそれを読めなかった。
読めないはずだった。
けれど、見つめているうちに、文字が動き始めた。
黒いインクが浮き上がり、細い光の糸となって宙に伸びる。
糸は絡まり、ほどけ、やがてひとつの景色を編み上げた。
ロゼリアの村だった。
朝の村。
まだ霧が残り、石畳は湿っている。
水車がゆっくり回り、パン屋の煙突から白い煙が上がる。
ケルは思わず手を伸ばした。
「村だ……」
景色は動いていた。
人々が歩いている。
羊飼いの少年が笛を吹き、井戸端では女たちが笑っている。
教会の鐘が鳴っている。
穏やかな朝だった。
しかし次の瞬間、鐘の音が歪んだ。
空が赤く染まる。
地面が裂ける。
村の地下から、青白い光が噴き上がった。
家々の窓が割れ、石壁が崩れ、教会の尖塔がゆっくりと傾いていく。
誰かが叫んだ。
誰かが走った。
誰かが、倒れた子どもを抱き上げようとして、光に飲まれた。
ケルは息ができなくなった。
「やめて……」
景色は止まらない。
燃える麦畑。
崩れる橋。
血に濡れた石畳。
泥の中に落ちた赤いリボン。
ケルはそのリボンを知っていた。
エリアが髪に結んでいたものだった。
「エリア!」
彼は景色の中へ飛び込もうとした。
けれど、身体は動かなかった。
次の光景。
丘の上。
大人になったケルが立っている。
その前に、エリアがいた。
彼女は泣いていなかった。
ただ、ひどく静かな顔をしていた。
その静けさが、ケルには涙よりも恐ろしかった。
未来のエリアが言った。
「あなたは、未来ばかり見ていた」
未来のケルは何かを言おうとしている。
だが声が出ない。
エリアは続けた。