序章 開かれた書物
未来は、初めから決まっているのだろうか。
古い人々は、それを星に尋ねた。
賢者たちは、それを書物に記した。
王たちは、それを手に入れようと戦い、祈り人たちは、それを恐れて目を伏せた。
ロゼリアの村には、ひとつの伝説があった。
数千年の昔、まだ森が人の言葉を覚えており、月が地上の泉に降りていた時代。
この地には、未来を記す書物があったという。
名を、未来年代記。
けれど、それは普通の本ではなかった。
その書物に書かれている文字は、人の手で読むためのものではなかった。
鳥の骨のような線。
枯れた蔓のような曲線。
星座を砕いて並べたような記号。
学者が読んでも、司祭が祈っても、王の命令で呼ばれた占星術師が夜を徹して眺めても、その意味を知る者はいなかった。
だが、伝説はこう続いている。
いつか、選ばれし者が現れる。
その者は、文字を読むのではない。
書物に眠る未来を、夢として見る。
そして村に災いが迫る時、彼は予言を読み解き、人々を救うのだと。
ロゼリアの子どもたちは、冬の夜になるとその話を聞かされた。
暖炉の火がぱちぱちと鳴る部屋で、老人たちは声を潜めて言った。
「だから、丘の向こうの銀の森には近づくな」
「どうして?」
「未来を知りたがる者は、妖精の女王に連れていかれるからだ」
子どもたちは怖がり、毛布の中へ潜り込んだ。
しかし翌朝になれば、ほとんどの者はその話を忘れた。
未来のことなど、子どもにとっては遠すぎる。
今日のパン。
明日の遊び。
次の祭り。
好きな子の笑顔。
世界は、それだけで十分に広かった。
けれど、ひとりだけ、その伝説を忘れられない少年がいた。
名を、ケル。
ロゼリアの丘で詩を作る、夢見がちな少年だった。
彼はまだ知らない。
自分がいつか、その書物を開くことを。
未来を見る力を欲し、その力によって未来に縛られていくことを。
そして、たったひとりの少女の手を取るために、予言そのものへ背くことを。
これは、未来を読めるようになった少年が、未来を読むことをやめるまでの物語。
そして、未完成の運命を、愛によって書き換える物語である。
第一章 ロゼリアの丘
ロゼリアの丘には、いつも風が吹いていた。
それは海から来る風ではなかった。
山から降りてくる風でもなかった。
もっと遠く、まだ誰も歩いたことのない明日のほうから吹いてくるような、不思議な匂いのする風だった。
ケルはその丘が好きだった。
村の人々は、丘の向こうに広がる森を恐れていた。
春でも霧が晴れず、昼でも木々の葉が銀色に光るその森は、昔から妖精の領分だと言われていた。
日暮れのあと、銀の森に入ってはいけない。
白馬の蹄の音を聞いたなら、振り返ってはいけない。
美しい女の声に名前を呼ばれても、答えてはいけない。
大人たちはそう言った。
けれどケルは、恐ろしいと思ったことがなかった。
丘に寝転がると、空は大きな書物のように広がった。
雲は余白。
鳥は黒いインクのしずく。
夕暮れの赤は、誰かがこぼした封蝋のようだった。
ケルはそこに、自分だけの詩を書いた。
竜を討つ騎士の詩。
月に恋した少年の詩。
古い塔に閉じ込められた歌姫の詩。
星の海を渡る船の詩。
けれど、どんな物語を書き始めても、最後にはいつも、ひとりの少女の詩になった。
「また空を見てる」
声がした。
ケルは草の上に寝転がったまま、片目だけを開いた。
丘の下から、エリアが登ってきていた。
栗色の髪を風に乱され、手には野いちごの入った小さな籠を持っている。
白いエプロンの裾には土がつき、頬は夕陽に染まっていた。
少し怒っているように見える。
けれどケルは知っていた。
エリアは本当に怒っている時ほど、もっと静かな顔をする。
「空を見てるんじゃない」
ケルは言った。
「聞いてるんだ」
エリアは足を止めた。
「空が何を言うの?」
「まだ決まっていないこと」
「まだ決まっていないことは、何も言わないんじゃない?」
ケルは起き上がり、草を払った。
「だからいいんだよ。何でも書ける」
エリアは少しだけ笑った。
その笑顔を見るたび、ケルの胸の奥で小さな鐘が鳴った。
教会の鐘よりずっと小さく、誰にも聞こえない。
けれど彼にとっては、どんな祝祭の鐘よりも確かな音だった。
エリアは彼の隣に腰を下ろし、籠から野いちごをひとつ取って差し出した。
「今日はどんな詩?」
「まだ途中」
「いつも途中ね」
「完成したら、終わってしまうだろ」
「終わったら、次を書けばいいじゃない」
ケルは返事に詰まった。
エリアの言葉は、いつも簡単だった。
簡単すぎるほど、真っ直ぐだった。
ケルが迷路の中でぐるぐると考えていることを、エリアは石畳の道でも歩くように、まっすぐ越えてしまう。
「そんなに簡単じゃない」
「簡単よ」
「君はいつもそう言う」
「だって、あなたは難しく考えすぎるもの」
エリアは野いちごを口に放り込んだ。
「詩も、未来も」
ケルはその言葉に少しだけ顔を上げた。
「未来?」
「また考えてたでしょ。大人になったらどうなるのか、とか」
「考えないほうがおかしい」
「そうかな」
「そうだよ。僕たちはいつまでも子どもじゃない。村も変わる。君も……」
言いかけて、ケルは黙った。
君も、いつか誰かと結婚する。
そう言おうとしていた。
けれどその言葉は、喉の奥で形を失った。
エリアは彼を見ていた。
昔からそうだった。
ケルが言いかけて飲み込んだ言葉を、彼女はなぜか見つけてしまう。
「私は?」
「何でもない」
「何でもなくない顔してる」
「顔に出てる?」
「すごく」
ケルはごまかすように笑った。
「詩人は顔に出るものなんだ」
「じゃあ詩人に嘘は向いてないね」
エリアはそう言って、膝を抱えた。
丘の下には、ロゼリアの村が見えた。
赤茶色の屋根。
石造りの小さな家々。
教会の尖塔。
水車小屋。
麦畑。
夕食の支度を知らせる細い煙。
それは、どこにでもある村だった。
けれどケルにとっては、世界の中心だった。
そしてその中心には、いつもエリアがいた。
「ねえ、ケル」
「何?」
「あなたは、大きくなったら本当に詩人になるの?」
「なるよ」
「村を出る?」
「たぶん」
「どこへ?」
「まだわからない。王都かもしれないし、海の向こうかもしれない。古い物語が眠っている場所なら、どこへでも行きたい」
「じゃあ、私は?」
ケルは言葉を失った。
エリアは何気なく聞いたような顔をしていた。
けれど、その指先はエプロンの裾を小さく握っていた。
「君は……」
ケルの胸の鐘が鳴った。
小さく。
けれど苦しいほど強く。
「君は、どうしたい?」
エリアは少し目を細めた。
「質問で返した」
「だって」
「ずるい」
「そうかな」
「そうよ」
二人はしばらく黙った。
風が丘を渡っていく。
草が波のように揺れた。
やがてエリアが、ぽつりと言った。
「私は、どこでもいい」
「どこでも?」
「あなたが、ちゃんと帰ってくるなら」
ケルは彼女を見た。
エリアは村のほうを見ていた。
夕陽がその横顔に触れ、睫毛の先を金色に染めている。
「帰ってくるよ」
ケルは言った。
「本当に?」
「本当だ」
「じゃあ約束」
エリアは小指を差し出した。
子どものころから何度もした約束。
雨上がりに丘で遊ぶ約束。
秘密の木苺の場所を誰にも言わない約束。
喧嘩しても翌朝には一緒に井戸へ水を汲みに行く約束。
けれどその日の小指は、なぜか少し違って見えた。
ケルは自分の小指を絡めた。
「約束」
エリアは微笑んだ。
「じゃあ、ちゃんと帰ってきてね。詩人になっても、予言者になっても、王様になっても」
「王様にはならない」
「わからないじゃない。未来なんて」
ケルは小さく笑った。
「未来がわかったら、楽なのに」
その言葉に、エリアの笑顔が少しだけ消えた。
「本当にそう思う?」
「思うよ。間違えなくて済む」
「間違えないことが、幸せなの?」
ケルは答えられなかった。
エリアは続けた。
「私は、未来は知らなくていい」
「怖くないの?」
「怖いよ」
彼女は当たり前のように言った。
「でも、怖いから一緒に歩くんじゃない?」
その言葉は、ケルの胸の奥に深く沈んだ。
怖いから、一緒に歩く。
それは、彼が今まで考えたことのない答えだった。
ケルは未来を、霧のようなものだと思っていた。
見えないから恐ろしい。
何が潜んでいるかわからないから、足がすくむ。
けれどエリアにとって未来は、道なのかもしれなかった。
霧がかかっていても、手をつなげば歩ける道。
「エリア」
「何?」
ケルは言いかけた。
いつか、僕と。
その続きを言うには、まだ自分は幼すぎる気がした。
けれど言わなければ、この風の中に消えてしまうような気もした。
「僕は……」
その時、村のほうから鐘が鳴った。
夕刻を告げる鐘だった。
エリアははっとして立ち上がった。
「帰らなきゃ。母さんに怒られる」
「先に行って」
「あなたは?」
「今の言葉、書いておきたい」
「また詩?」
「うん」
エリアは呆れたように息を吐いた。
けれど、その表情は優しかった。
「じゃあ、暗くなる前に帰ってきて」
「わかってる」
「本当に?」
「本当に」
エリアは丘を下り始めた。
数歩進んでから、振り返る。
「ケル」
「何?」
「未来が怖くなったら、ちゃんと言ってね」
ケルは笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「怖くないよ」
エリアは何か言いたげに彼を見つめた。
でも結局、何も言わずに村へ向かって歩いていった。
その背中が夕暮れに小さくなっていく。
ケルは草の上に座ったまま、彼女が村の灯りの中へ消えるまで見ていた。
やがて丘には、彼ひとりになった。
空には、早すぎる月が浮かんでいた。