祖父はじっと彼を見た。
その目に、少しだけ怒りがあった。
「お前は、未来を見たいのか。村を救いたいのか」
「同じことだ」
「違う」
祖父の声は低かった。
「その二つは、いつか必ず分かれる」
ケルは拳を握った。
「お祖父さんは怖いんだ。父さんのことがあったから」
言った瞬間、空気が凍った。
祖父の顔から表情が消えた。
ケルはすぐに後悔した。
「ごめん」
しかし祖父は責めなかった。
ただ、疲れたように目を伏せた。
「そうだ。私は怖い」
ケルは何も言えなくなった。
祖父は静かに続けた。
「息子を失った。お前の父を。あの子も最初は、誰かを守りたいだけだった。予言を知れば救えると信じていた。だが、未来を見るたびに現在を疑い、愛する者の言葉よりも書物の影を信じるようになった」
祖父はケルを見た。
「私は、お前まで失いたくない」
ケルの胸が痛んだ。
それでも、言葉は止まらなかった。
「僕は失われない」
「それを決めるのは、お前ではない」
「じゃあ誰が決めるの」
「お前が今、どう生きるかだ」
二人はしばらく黙った。
暖炉の火が、ぱちりと鳴った。
やがて祖父は、深く息を吐いた。
「一度だけだ」
ケルは顔を上げた。
祖父は首から鍵を外した。
「鐘楼の光が本当に兆しなら、見ておく必要はある。だが一度だけ。見えたものがどれほど恐ろしくとも、深追いはしない」
「わかった」
「本当にか」
「わかった」
祖父は疑うように彼を見たが、それ以上は言わなかった。
二人は奥の部屋へ入った。
護符の貼られた狭い部屋。
白い円。
石の台座。
未来年代記。
本は、ケルを待っていた。
そう感じた。
まるで、彼が戻ってくることを最初から知っていたかのように。
祖父が鍵を置き、蝋燭に火をつける。
「断章の印を持て」
ケルは胸元から紙片を取り出した。
円環を断ち切る剣の印。
「何を見ても、そこへ行くな」
「うん」
「声が聞こえても、答えるな」
「うん」
「誰かが呼んでも、振り返るな」
ケルは一瞬、銀の森の女王を思い出した。
「わかってる」
祖父は本の留め具を外した。
ページが開く。
ざわり。
風が生まれる。
蝋燭の火が青くなる。
文字が動き出す。
ケルはページを見つめた。
鳥の骨。
枯れた蔓。
砕けた星座。
やがて、光の糸が宙へ立ち上がる。
今度の景色は、教会だった。
夜。
村は眠っている。
鐘楼だけが、青白く光っている。
ケルは息を潜めた。
見るだけ。
そこへ行くな。
鐘楼の中に、人影があった。
誰かが螺旋階段を上っている。
外套をまとった男。
顔は見えない。
男は鐘の前に立ち、壁に手を触れた。
すると、石壁に古い紋章が浮かび上がった。
円環。
逆さまの樹。
未来年代記と同じ紋章。
ケルの心臓が大きく鳴った。
男は小さな短剣で自分の指を切り、血を紋章へ垂らした。
青白い光が強くなる。
鐘が鳴った。
だが、それは普通の鐘の音ではなかった。
空間そのものが裂けるような音。
村の家々の窓が震え、眠っていた人々が目を覚ます。
地面の下から、何か巨大なものが動く気配がした。
次の瞬間、景色が変わった。
地下。
石で作られた古い空洞。
巨大な円環の装置。
その中心で、青白い光が脈打っている。
装置の周りには、古代文字が刻まれていた。
ケルには読めない。
けれど、意味だけが頭に流れ込む。
時を縛るもの。
未定を嫌う者たちの鎖。
未来を一つに固定せんとする古代の力。
ケルは息を呑んだ。
これだ。
大災害の根。
村の地下深くに眠る、古代の力。
さらに景色が変わる。
崩れる地面。
逃げ惑う村人。
燃える家。
青白い光に飲まれる教会。
そして、丘の上。
エリアが立っている。
彼女は白い服を着ていた。
婚礼の衣のようにも、死装束のようにも見えた。
ケルは叫びそうになった。
エリアの前に、未来の自分がいる。
大人になったケル。
やつれた顔。
予言書を抱え、必死に何かを言っている。
だが、エリアは首を振った。
「あなたは、未来ばかり見ていた」
またその言葉。
未来のケルが手を伸ばす。
エリアは一歩下がる。
「私が隣にいたこと、一度でもちゃんと見てくれた?」
「やめろ……」
ケルは呻いた。
祖父の声が遠くで響く。
「ケル、戻れ!」
だが景色は続く。
丘の空が割れる。
星の海が流れ込む。
エリアの足元に、青白い亀裂が走る。
ケルは本能的に手を伸ばした。
見ているだけだとわかっている。
けれど、伸ばさずにはいられなかった。
「エリア!」
未来のエリアが、こちらを見た。
ありえない。
これは景色のはずだ。
予言の断片のはずだ。
なのに、彼女は確かにケルを見た。
そして、静かに言った。
「今の私を見て」
次の瞬間、誰かが彼の腕を掴んだ。
祖父だった。
「戻れ!」
ケルの手の中で、断章の印が熱を持った。
白い光が弾ける。
景色が砕ける。
ケルは台座の前に倒れ込んだ。
息ができない。
身体が震えている。
頬に冷たい汗が流れていた。
祖父が本を閉じた。
重い音がした。
部屋は静かになった。
蝋燭の火は元の色に戻っている。
祖父はケルの肩を掴んでいた。
「何を見た」
ケルはしばらく答えられなかった。
胸の奥で、未来の鐘がまだ鳴っている。
やがて、かすれた声で言った。
「地下に……何かがある」
祖父の表情が変わった。
「古代の装置みたいなもの。時を固定する力。鐘楼と繋がってる。誰かが、それを起こそうとしてた」
「誰か?」
「顔は見えなかった」
「他には」
ケルは黙った。
エリアのことを言うべきか迷った。
白い衣。
丘。
亀裂。
離れていく足。
今の私を見て。
ケルはその言葉を思い出した瞬間、胸を押さえた。
「エリアがいた」
祖父は目を伏せた。
「そうか」
「どういう意味?」
「わからん」
「わからないって!」
「予言は答えではないと言っただろう!」
祖父の声が鋭く飛んだ。
ケルは黙った。
祖父は息を整え、低く言った。
「今わかったことは二つだ。村の地下に古代の力が眠っていること。そして鐘楼がその鍵になっていること」
「じゃあ、調べないと」
「調べる。だが予言書ではなく、現実をだ」
「現実?」
「教会の古文書、村の地下道、古い井戸、石工の記録。人の手で調べられるものがある」
ケルは焦った。
「でも時間が」
「時間がないからこそ、現在を見る」
祖父はケルの肩から手を離した。
「これ以上、今日は本を開くな」
ケルは本を見た。
未来年代記は閉じていた。
だが、ページの奥からまだ声が聞こえる気がした。
もっと見ろ。
もっと知れ。
もっと早く。
そうすれば守れる。
「ケル」
祖父の声で我に返る。
「はい」
「今すぐエリアに会ってこい」
ケルは驚いた。
「どうして」
「お前が見た未来に彼女がいるのなら、なおさらだ」
「でも、話せない」
「全部を話せとは言わん」
祖父は静かに言った。
「ただ、今の彼女を見ろ」
ケルは胸を突かれた。
未来のエリアの言葉。
今の私を見て。
祖父は知らないはずなのに。
ケルは何も言えなかった。
やがて、小さくうなずいた。
「行ってくる」
彼は部屋を出た。
祖父の家を飛び出すと、外はすっかり夜になっていた。
村の窓には灯りがともっている。
エリアの家の方角にも、小さな灯りがあった。
ケルはそちらへ向かって歩き出した。
けれど途中で、教会の鐘楼を見上げてしまう。
闇の中に沈む石の塔。
何の光もない。
それでもケルには、そこから青白い光が漏れているように思えた。
未来が、呼んでいる。
彼は足を止めた。
エリアの家へ行く道。
教会へ行く道。
二つの道が、夜の村で分かれていた。
ケルは迷った。
ほんの少しだけ。
そして、教会の方へ歩き出した。
今だけだ。
少し確かめるだけ。
鐘楼に何もなければ、すぐにエリアのところへ行く。
そう自分に言い聞かせながら。
だが、その背中を夜の窓から見つめる少女がいた。
エリアだった。
彼女は家の二階から、ケルが教会へ向かうのを見ていた。
手には、彼に返そうと思っていたものが握られている。
丘に落ちていた、古びた手帳。
開かれたページには、震える字でこう書かれていた。
怖いから、知らなければならない。
エリアはその一行を見つめた。
そして小さく呟いた。
「違うよ、ケル」
その声は、夜に溶けた。
「怖いなら、ひとりで行かないで」