頬は赤く、眉は怒ったように寄り、瞳には心配があふれている。
肩で息をして、髪は少し乱れていた。
生きている。
ここにいる。
ケルは、初めてその事実だけを見た気がした。
「ごめん」
声が震えた。
「本当に、ごめん」
エリアは一瞬、怒鳴ろうとしたようだった。
けれど、ケルの顔を見て言葉を飲み込んだ。
「何があったの」
ケルは口を開いた。
今までなら、隠していた。
怖がらせたくない。
巻き込みたくない。
僕が何とかする。
そう言って、また未来へ逃げていただろう。
けれど今、彼の耳にはまだ男の声が残っていた。
彼女を見るな。
その言葉が、何より恐ろしかった。
だからケルは、初めて話した。
「村の地下に、時を固定する装置がある」
エリアは目を見開いた。
「時を……?」
「大災害はたぶん、それが動くことで起こる。鐘楼が鍵になってる。誰かがそれを起こそうとしてる」
「誰かって?」
ケルは息を整えた。
「わからない。でも……僕自身みたいだった」
エリアは黙った。
ケルは続けた。
「未来の僕かもしれない。あるいは、僕がそうなる可能性かもしれない。そいつは、未来を一つに固定しようとしてた。誰も傷つかないように。失わないように。エリアを……」
そこで声が詰まった。
エリアは、じっと彼を見ていた。
ケルは目を逸らさずに言った。
「君を失うのが怖かった」
鐘楼に、夜風が吹き込む。
「未来で君が僕から離れていくのを見た。君が、僕に言ったんだ。未来ばかり見て、隣にいた私を見てくれなかったって」
エリアの瞳が揺れた。
「だから、君を守らなきゃと思った。村も、君も、全部。僕が何とかしなきゃって」
ケルは笑おうとして失敗した。
「でも、それで本当に君を見てなかった」
エリアは何も言わなかった。
沈黙が怖かった。
けれどケルは続けた。
「ごめん。僕は未来が怖い。君と約束した未来が壊れるのが怖い。君を幸せにできないかもしれないのが怖い。いつか君に、選ばれなくなるのが怖い」
言葉にした瞬間、胸の奥で固まっていたものが崩れた。
こんなに単純なことだったのか。
村を救う。
予言を変える。
大災害を防ぐ。
その奥にあったのは、ただの恐れだった。
愛する人と生きる未来が、わからないことへの恐れ。
エリアはゆっくりと息を吐いた。
「やっと言った」
ケルは彼女を見た。
「怒ってる?」
「怒ってる」
エリアは即答した。
「でも、ちょっと安心した」
「安心?」
「あなたが未来の人じゃなくて、今のケルに戻ってきたから」
その言葉に、ケルの目の奥が熱くなった。
エリアは手帳を差し出した。
「これ、丘に落ちてた」
ケルは受け取った。
開かれたページ。
怖いから、知らなければならない。
エリアはその一行を指で示した。
「私は、違うと思う」
ケルはページを見つめた。
エリアは言った。
「怖いから、一緒に歩くんでしょ」
胸の奥で、小さな鐘が鳴った。
あの日の丘で鳴った音と同じだった。
ケルは震える手で羽ペンを取り出した。
インクはない。
けれど彼は、爪で紙に薄く跡をつけるように、その下へ言葉を書いた。
怖いから、一緒に歩く。
文字はほとんど見えなかった。
でも、確かにそこに刻まれた。
エリアはそれを見て、小さく笑った。
「それでよし」
「先生みたいだ」
「だって、あなたはすぐ間違えるから」
「ひどい」
「本当のことでしょ」
ケルは少し笑った。
久しぶりに、ちゃんと笑えた気がした。
だが、その瞬間だった。
頭上の鐘が、ひとりでに鳴った。
ごおん。
低く、重く、空を裂くような音。
二人は同時に顔を上げた。
鐘には誰も触れていない。
ごおん。
二度目。
村の窓に次々と灯りがともる。
遠くで犬が吠えた。
石の壁に、青白い光が走る。
円環と逆さまの樹の紋章が、鐘楼の内側に浮かび上がった。
エリアがケルの手を握った。
「ケル……」
ケルはその手を握り返した。
今度は離さなかった。
鐘が三度目を鳴らす。
ごおん。
その音と同時に、教会の地下から、何か巨大なものが目覚める気配がした。
石床が震える。
村全体が、静かに揺れ始めた。
ケルはエリアを見た。
エリアも彼を見ていた。
怖い。
どうしようもなく怖い。
けれど、今は一人ではなかった。
ケルは言った。
「祖父のところへ行こう」
エリアはうなずいた。
「うん」
二人は鐘楼の階段を駆け下りた。
背後で、鐘が鳴り続けている。
まるで、まだ書かれていない未来を呼び覚ますように。
第六章 地下に眠るもの
鐘の音は、村中に降り注いでいた。
ごおん。
夜の屋根を震わせる。
ごおん。
眠っていた窓を叩き起こす。
ごおん。
石畳の下に眠る何かを、少しずつ、確実に目覚めさせていく。
ケルとエリアは教会の螺旋階段を駆け下りた。
狭い階段は暗く、足元が何度もふらついた。
壁に手をつくたび、冷たい石の奥から青白い光が滲んでいるのがわかった。
まるで教会そのものに血管があり、そこを光が流れているようだった。
「急いで!」
エリアが叫んだ。
ケルはうなずいた。
だが、階段を下りながら、頭の奥では別の音が鳴っていた。
ページがめくれる音。
ざわり。
ざわり。
未来年代記が、遠く離れた祖父の家で開かれたわけでもないのに、彼の内側で勝手にページをめくっている。
崩れる家。
走る村人。
青白い亀裂。
泣き叫ぶ子ども。
鐘楼から降る光。
見たくない。
今は見ている場合じゃない。
ケルは歯を食いしばった。
その時、エリアの手が彼の手を強く握った。
「こっち見て」
ケルははっとして彼女を見た。
階段の途中、エリアは息を切らしながらも、まっすぐ彼を見ていた。
「今、未来を見てたでしょ」
「少しだけ……勝手に」
「じゃあ、戻ってきて」
「戻ってる」
「本当に?」
ケルは息を吸った。
冷たい石の匂い。
鐘の音。
エリアの手の温度。
彼女の乱れた髪。
頬にかかった汗。
今ここにあるものを、ひとつずつ数えた。
「戻ってる」
今度は、ちゃんと言えた。
エリアは短くうなずいた。
「なら行こう」
二人は再び駆け下りた。
教会の身廊に出ると、村人たちが何人も集まり始めていた。
寝間着に外套を羽織った者。
灯りを持つ者。
子どもを抱きしめる者。
皆、鐘を見上げて不安げにざわめいている。
「誰が鐘を鳴らしてるんだ?」
「鐘番はいないはずだ」
「地面が揺れてるぞ」
「賢者様を呼べ!」
その声を聞いて、ケルは胸が締めつけられた。
村人たちの顔。
彼が救いたいと思った人々。
彼の予言に期待した人々。
そして今、予言ではなく現実の恐怖に立たされている人々。
エリアが彼の腕を引いた。
「ケル、止まらないで」
「うん」
二人は教会を飛び出した。
夜の村は、もう静かではなかった。
家々の窓に灯りがともり、人々が道へ出ている。
犬が吠え、馬が怯えて嘶き、井戸の水面が小刻みに震えていた。
石畳の隙間から、細い青白い光が漏れている。
村の地下全体に、何かが広がっている。
祖父の家へ向かう道の途中、ケルは何度も足を止めそうになった。
あそこにも亀裂。
あの家の下にも光。
あの子どもの足元にも。
全部を見なければ。
全部を守らなければ。
だが、そのたびにエリアが手を引いた。
「一つずつ」
「でも」
「一つずつ!」
エリアの声は鋭かった。
「全部を一人で見ようとしないで。まず、アルヴィン様のところへ行く」
ケルはうなずいた。
全部を一人で背負わない。
そのことが、こんなにも難しいとは思わなかった。
祖父の家に着くと、扉は開いていた。
中から強い光が漏れている。
「お祖父さん!」
ケルが飛び込むと、祖父は奥の部屋にいた。
未来年代記の部屋ではない。
書物の積み上がった広間の中央に、村の古い地図を広げている。
その周りには、村長、石工、教会の司祭、そして数人の年長者が集まっていた。
祖父の顔は険しい。
「来たか」
「鐘楼が勝手に鳴った。紋章が光って、地下で何かが動いてる」
「見ればわかる」
祖父は地図を指差した。
ロゼリアの村の地図。
だが、それは普通の地図ではなかった。
家々や道の下に、細い線が描かれている。
地下道のようにも、血管のようにも見えた。
その線の中心は、教会の真下にある大きな円へ集まっている。
「これは?」
ケルが聞くと、祖父は答えた。
「古い水路の記録だと思われていたものだ。だが違う。地下に封じられた装置へ繋がる導脈だ」
「導脈……」
「時の力を流す道だろう」
司祭が震える声で言った。
「そんなものが教会の下にあるなど、私は知らされていません」
「忘れられたのだ」
祖父は地図の端にある古い文字を指した。
「この村は、初めからこの力を封じるために作られた。教会は祈る場所であると同時に、蓋でもあった」
石工が青ざめた。
「じゃあ、その蓋が開きかけてるってことか」
祖父はうなずいた。
「鐘楼が鍵だ。鐘の振動が地下の装置に届き、封印を揺り起こしている」
村長が声を荒げた。
「では鐘を壊せばいいのか!」
「乱暴に壊せば、封印が一気に破れる可能性がある」
「ではどうすれば!」
祖父は、ケルを見た。
その視線で、部屋にいた全員がケルを見た。
まただ。
期待。
恐れ。
頼み。
選ばれし者を見る目。
ケルの喉が乾いた。
以前なら、ここで言ったかもしれない。
僕が見ます。
僕が何とかします。
予言書を開いて、未来を読み、大災害を止める方法を探します、と。
だが、今はエリアの手が彼のそばにあった。
触れてはいない。
けれど、すぐ隣にいる。
ケルは一度、彼女を見た。
エリアは何も言わず、ただうなずいた。
一人で決めないで。
そう言われた気がした。
ケルは祖父に向き直った。
「僕だけでは無理だ」
部屋が静まり返った。
村長が眉をひそめる。
「何を言っている。君は予言書を読めるのだろう?」
「読めます。でも、予言は答えじゃありません」
その言葉を口にした瞬間、祖父の目がわずかに揺れた。
ケルは続けた。
「僕が見えるのは、起こるかもしれない未来です。僕が怖がっているものも混ざる。僕一人で見れば、たぶん間違えます」