第七章 自分を燃やそうとした者
七通目の黒い封筒は、軽かった。
軽すぎた。
玲は郵便受けの前で、その封筒を掌に乗せたまま動けなかった。
一通目から六通目まで、封筒は日ごとに重くなっていた。
紙一枚しか入っていないはずなのに、石のように、湿った本のように、冷えた鉄のように重くなっていった。
けれど七通目は違った。
ほとんど重さがない。
空の封筒のようだった。
それなのに、怖い。
何かが軽くなったのではない。
何かが、封筒の中から抜け出した後の軽さだった。
玲は宛名を見た。
自分を燃やそうとした者 様
その文字は、他の封筒と同じ細い筆跡で書かれていた。
だが、今朝の文字だけは、どこか噛み裂かれているように見えた。
線の端がわずかに荒れていて、インクが紙の繊維に滲むのではなく、爪で削った跡のように残っている。
自分を燃やそうとした者。
玲は、その言葉を否定しようとした。
そんなことはない。
自分は死のうとしたわけではない。
本当に自分を燃やそうとしたわけではない。
ただ、全部消えてしまえば楽なのにと思ったことがあるだけだ。
朝が来なければいい。
会社に行かなくて済めばいい。
誰からも連絡が来なければいい。
昔の自分も、今の自分も、未来の自分も、まとめて灰になればいい。
そう思った夜が、何度かあっただけだ。
それは誰にでもある疲れだ。
一時的な感情だ。
大げさに言うほどのことではない。
玲はそう言い聞かせた。
けれど封筒の奥から、低い息遣いが聞こえる。
獣の息。
夢の中で見た狼。
灰の地平線の向こうに立っていた、巨大な影。
白い牙。
鎖を引きずる音。
玲は封筒を鞄に入れず、そのまま部屋へ持ち帰った。
玄関の扉を閉めると、部屋の中は妙に静かだった。
机の上には六通の封筒が並んでいる。
その横には古いノートパソコン。
画面には昨夜書いた『四畳半銀河』の続き。
二ページ。
たった二ページ。
けれど、十年ぶりに進んだ二ページだった。
玲は七通目を机に置いた。
音はしなかった。
軽いからではない。
まるで封筒が、机に触れる直前で浮いているようだった。
玲は手を離せなかった。
離した瞬間、何かが飛び出してくる気がした。
それでも、開けなければならない。
もう分かっていた。
開けなかったものは腐る。
未練は湿気を吸う。
腐った夢は燃える。
言わなかった言葉は根を張る。
灰色の部屋は冬では温まらない。
終わらせなかったものは、こちらを終わらせに来る。
ならば、この封筒も開けなければならない。
玲は蝋封に触れた。
今朝の蝋は、冷たくなかった。
熱かった。
火傷するほどではない。
だが、長く触れていられない熱がある。
黒い蝋の紋章は、今日だけは枝にも羽にも見えなかった。
牙だった。
二本の牙。
何かを噛み破ろうとしている形。
玲はカッターで封を切った。
その瞬間、封筒の口から、焦げた匂いがした。
紙の焦げる匂い。
髪の毛の焦げる匂い。
古い本を焼いた時のような、甘くて苦い匂い。
玲は息を止めた。
中には、やはり白い紙が一枚。
だが、その紙の端は少し焦げていた。
玲は紙を開いた。
そこには、一行だけ書かれていた。
燃やすものを、間違えないでください。
玲は動けなかった。
燃やすものを、間違えないでください。
その一文は、これまでのどの手紙よりも静かだった。
責めてもいない。
脅してもいない。
突き放してもいない。
ただ、止めていた。
玲は椅子に座った。
封筒を見つめる。
自分を燃やそうとした者。
燃やすものを、間違えないでください。
玲は、この数日間、自分がどこかで火を求めていたことに気づいた。
灰色の部屋を温める火。
腐った夢を焼く火。
終わらないものを終わらせる火。
自分を苦しめるものを、まとめて消してくれる火。
けれど、その火が何に向かうのか、玲はまだ知らなかった。
原稿を燃やしたかったのかもしれない。
十年前の自分の夢を、証拠ごと消してしまえば楽になると思った。
古いノートパソコンを壊したかったのかもしれない。
『四畳半銀河』というフォルダを完全に削除すれば、もう何も届かない気がした。
会社の資料も、メールも、言い訳も、全部燃やしたかったのかもしれない。
そして、もっと深い場所では。
自分自身を、燃え尽きたことにしたかった。
もう無理だったのだと。
もう終わった人間なのだと。
だから仕方ないのだと。
そう言える灰になりたかった。
玲は顔を覆った。
涙は出なかった。
代わりに、胸の奥で何かが唸っていた。
怒り。
それは久しぶりの感情だった。
何に怒っているのか、玲には分からなかった。
夢を叶えられなかった自分か。
夢を見た若い自分か。
何も知らずに「まだ間に合う」と言う広告か。
人の物語ならいくらでも消費する世界か。
才能のある誰かか。
才能のない自分か。
終わらせることも始めることもできない、この十年間か。
怒りは、玲の中で長い間鎖に繋がれていた。
大人だから。
社会人だから。
みっともないから。
恥ずかしいから。
誰も悪くないから。
自分の努力不足だから。
そうやって、何重にも縛っていた。
だが七通目の封筒は、その鎖に牙を立てていた。
じゃら。
玲は音を聞いた。
部屋のどこかで、鎖が引きずられる音。
じゃら。
じゃら。
押し入れの奥か。
机の下か。
胸の内側か。
玲は立ち上がった。
部屋の空気が熱い。
いや、熱いのは自分だった。
玲は押し入れの前に行き、段ボールの中から古い原稿を一束取り出した。
『四畳半銀河』の初稿。
赤ペンで何度も直し、途中で投げ出した紙束。
玲はそれを持ってキッチンへ向かった。
キッチンと呼ぶには狭い場所だった。
一口コンロ。
シンク。
小さな換気扇。
そこに、百円ライターが置いてある。
玲は原稿の束をシンクに置いた。
ライターを手に取る。
親指をかける。
火をつければいい。
燃やせば終わる。
こんなものがあるから苦しい。
こんなものを捨てられないから、いつまでも腐っている。
こんなものがあるから、自分は前に進めない。
燃やせ。
燃やせば、黒い封筒も届かなくなる。
燃やせば、夜も終わる。
玲はライターを擦った。
小さな火がついた。
青い芯。
オレンジの先端。
火は、あまりにも小さかった。
こんな小さなものが、紙を燃やし、部屋を燃やし、夢を燃やし、自分を燃やす。
玲は原稿の端に火を近づけた。
その瞬間、背後で鈴が鳴った。
ちりん。
玲の手が止まった。
振り返る。
部屋の玄関に、黒衣の人物が立っていた。
ドアは閉まっている。
鍵もかけたはずだった。
それなのに、その人物はそこにいた。
黒い衣。
深い帽子。
顔に落ちる影。
肩から提げた細長い黒い鞄。
郵便配達員には見えなかった。
喪服の人にも見えた。
どこかの祭祀に仕える者にも見えた。
古い劇場の舞台袖から出てきた役者にも見えた。
玲は声を出せなかった。
黒衣の人物は、ゆっくりと一礼した。
その動作はひどく丁寧で、ひどく異様だった。
「まだでございます」
声は静かだった。
昨日の夢で聞いた声。
世界樹の根元で聞いた声。
灰色の部屋の火のそばで聞いた声。
玲はライターを持ったまま、ようやく言った。
「誰だよ」
黒衣の人物は答えなかった。
かわりに、玲の手元を見た。
ライター。
原稿。
シンク。
「燃やすものを、間違えないでください」
七通目の紙に書かれていた言葉と同じだった。
玲の手から、力が抜けた。
ライターの火が消える。
「じゃあ、何を燃やせばいいんだよ」
玲の声は震えていた。
怒りと恐怖と、泣きたい気持ちが混ざっていた。
「夢か? 原稿か? この部屋か? 俺か?」
黒衣の人物は、しばらく黙っていた。
沈黙が部屋に降りる。
外では、雨上がりの道路を車が通る音がする。
隣室からテレビの笑い声がかすかに聞こえる。
冷蔵庫が低く鳴っている。
普通の夜。
普通のアパート。
その中に、黒衣の人物だけが、別の時代から来たように立っている。
「あなた自身ではありません」
黒衣の人物は言った。
「原稿でもありません」
玲は原稿を見た。
火をつけられなかった紙束。
「では、何を」
「あなたを閉じ込めていた、古い結末でございます」
玲は意味が分からなかった。
古い結末。
「俺の話は、まだ結末なんてない」
「ございます」
黒衣の人物は静かに言った。
「書かれていないだけで、あなたはすでに何度も同じ結末を選んでおられます」
玲は黙った。
「どうせ無理だ。今さら遅い。才能がない。恥をかくくらいなら書かない方がいい。終わらせなければ、失敗したことにはならない」
一つずつ、黒衣の人物は言葉を並べた。
それは、玲がこの十年、自分に言い聞かせてきた言葉だった。
「それらが、あなたの古い結末です」
玲は、原稿を握りしめた。
紙がしわになる。
黒衣の人物は、責めているようではなかった。
慰めているようでもなかった。
ただ、そこにあるものの名を告げているだけだった。
「俺は……」
玲は言いかけて、止まった。
何を言えばいいのか分からない。
俺はまだ書きたい。
俺は怖い。
俺は怒っている。
俺は悔しい。
俺は終わりたくない。
俺は、あの頃の自分を裏切りたくない。
言葉が喉に集まる。
今度は根にならず、声になろうとしていた。
玲は絞り出すように言った。
「俺は、終わりたくない」
黒衣の人物は、わずかに頷いたように見えた。
「でしたら、終わらせるべきものをお選びください」
その時、部屋の奥で低いうなり声がした。
玲は振り向いた。
机の下に、黒い影があった。
最初は、服の影かと思った。
けれど違った。
影は動いていた。
四つ足で、ゆっくりと。
黒い獣。
狼。
その身体は、煙と紙と影でできているようだった。
輪郭は揺らぎ、背中には焦げた原稿の破片が刺さっている。
首には鎖が巻かれている。
鎖の先は、玲の胸のあたりへ伸びていた。
玲は息を呑んだ。
狼は牙を剥いていた。
だが、その目にあったのは殺意ではなかった。
怒り。
いや、怒りの奥にある痛み。
長い間閉じ込められていたものの目だった。
「それは何だ」
玲は聞いた。
黒衣の人物は、狼を見て言った。
「あなたが鎖で繋いだものです」
狼が低く唸る。
「怒りであり、飢えであり、まだ生きたいという力でございます」
玲は狼を見た。
怖かった。