小説ラグナログ

終末の神話

届いた黒い封筒が、忘れようとしていた記憶を呼び戻す。紫の傘を差した少女との出会いが、燃え残っていた過去と僕を向き合わせる。世界樹が軋むように、終末は破滅ではなく、次の芽吹きの始まりだった。

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開けなかったものは、腐るんですよ。
未練は、湿気を吸います。
腐った夢は、よく燃えます。
言わなかった言葉は、夜に根を張ります。
部屋が寒いのは、冬のせいではありません。
終わらせなかったものが、あなたを終わらせに来ます。
燃やすものを、間違えないでください。
灰の中に、次の物語が混ざっています。

八つの一文。

並べると、それは手紙というより、儀式の順番に見えた。

開ける。
腐りを知る。
未練を知る。
火を知る。
言葉を取り戻す。
寒さを知る。
終わりを知る。
燃やすものを選ぶ。
灰の中に次を見つける。

では、九通目には何が書かれるのか。

玲は考えた。

恐怖は、まだあった。

むしろ、八通目まで来たからこそ、九通目が怖い。

終わりが近い。

それは分かる。

けれど、今の玲は、その終わりをただ拒むことができなかった。

終わりは来る。

ならば、それをどう迎えるか。

玲は『四畳半銀河』を書き始めた。

今夜は、主人公がついに部屋の扉に手をかける場面だった。

四畳半の部屋。
窓の外には雨。
部屋の隅には黒い狼。
天井には枝の染み。
床には灰。
机の上には白紙。

主人公は、ずっと部屋から出たいと思っていた。

でも本当は、出るのが怖かった。

外に何もなかったらどうする。
外がただの現実だったらどうする。
銀河なんてどこにもなかったらどうする。

玲は書いた。

彼は扉の前に立った。
ノブに手をかける。
その金属は、冬の星のように冷たかった。

指が止まる。

少し考えて、続ける。

背後で狼が唸った。
急かす声ではなかった。
それは、彼が置き忘れてきた自分自身の声だった。

玲は書き続けた。

時間を忘れた。

外の音が遠ざかる。

部屋の寒さも、封筒の気配も、会社のメールも、すべて少しずつ遠くなる。

ただ、物語の中の部屋がある。

主人公がいる。
狼がいる。
扉がある。
そして扉の向こうに、まだ見えない何かがある。

玲は、十年前には書けなかった続きを書いていた。

それは技術の問題ではなかった。

十年前の玲は、主人公を外へ出すことができなかった。
自分自身が、まだ外の怖さを知らなかったからだ。

今の玲は知っている。

外は優しくない。

夢は簡単には叶わない。
努力は必ず報われるとは限らない。
才能の差はある。
時間は戻らない。
生活は重い。
人は忘れる。
自分も逃げる。
希望は、広告のコピーほど簡単ではない。

それでも。

それでも、部屋の中で腐っていくよりは、扉を開けた方がいい。

玲は書いた。

扉の向こうに銀河があるかどうか、彼には分からなかった。
けれど、扉を開けなければ、銀河がないことさえ確かめられない。

書いた瞬間、玲の目に涙が滲んだ。

それは悲しみだけではなかった。

悔しさでも、安堵でも、喜びでもない。
それらが混ざった、名前のない液体だった。

一滴、頬を伝って落ちる。

机の上の八通目の白い紙に、涙が落ちた。

灰の中に、次の物語が混ざっています。

その文字の横に、涙の丸い跡ができる。

その跡が、朝の光でもないのに、かすかに光った。

玲は目をこすった。

見間違いだと思った。

だが、涙の跡は確かに、淡い金色を帯びていた。

その時、天井の枝の染みが、音もなく揺れた。

部屋の奥で、黒い狼が遠く吠える声がした。

そしてどこか、とても遠い場所で、誰かが涙を落としたような気がした。

バルドル。

玲はなぜか、その名を思い出した。

昔読んだ神話の中で、死んだ光の神。

世界が終わりへ向かう時、悲しみの中心にいる名。

玲は北欧神話の細部を覚えていない。

それでも、その涙が、ただの絶望ではなかったことだけは分かる気がした。

悲しみの中に、光がある。

涙は、終わりを濡らすだけではない。

灰の中に、次のものを芽吹かせる。

玲は画面に戻った。

書き続けた。

主人公は扉を開ける。

その向こうには、宇宙ではなく、ただの廊下がある。

古いアパートの廊下。

誰かの生活音。
湿った空気。
剥がれかけた壁紙。
蛍光灯の明かり。

でも、その廊下の先の小さな窓に、雨上がりの光が差している。

玲はそこまで書いて、手を止めた。

時計を見ると、午前二時を過ぎていた。

原稿は、さらに十ページ進んでいた。

結末まで、あと少し。

本当に、あと少しだった。

玲は保存ボタンを押した。

そして、初めてファイルを別名で保存した。

四畳半銀河_最終稿

その名前を見て、玲は少し笑った。

プロット案_これで最後。

昔の自分が何度もつけた名前。

でも今夜の「最終稿」は、少しだけ違う。

これは逃げるための最後ではない。

終わらせるための最後だ。

玲は八通の封筒を見た。

明日、九通目が届く。

それで終わる。

そう思った。

怖い。

でも、今度はその怖さの中に、微かな期待もあった。

夜が深くなる。

玲はベッドに入った。

眠る前に、ふと窓の外を見た。

雨は上がっている。

雲の隙間から、月が見えた。

完全な月ではない。
少し欠けた、白い月。

その光が、机の上の八通目の封筒に落ちている。

黒い紙の金色の縁が、かすかに光った。

玲は目を閉じた。

夢の中で、玲は灰の大地に立っていた。

昨日より、空は少し明るい。

赤黒い雲の奥に、淡い白い光がある。

足元の灰の中には、小さな芽がいくつも出ていた。

緑。
金。
薄い青。
名前の分からない色。

世界はまだ壊れている。

大地は焦げ、空は裂け、遠くには倒れた樹の影がある。
巨人たちの足跡も、狼の爪痕も残っている。

それでも、色があった。

玲は歩いた。

灰を踏むたび、足跡の周りに小さな光が滲む。

遠くに、黒衣の人物が立っていた。

背中だけが見える。

その人物は、燃え尽きた世界の端で、何かを見届けていた。

玲は声をかけようとした。

だが、その前に黒衣の人物が振り返らずに言った。

「明日、最後の配達でございます」

玲は立ち止まった。

「最後?」

「はい」

「何が届く」

黒衣の人物は、灰の大地の向こうを見たまま答えた。

「終わりでございます」

玲の胸が強く鳴った。

どくん。

どくん。

「終わったら、どうなる」

黒衣の人物は少しだけ沈黙した。

その沈黙は、冷たくはなかった。

「それは、あなたがお書きになることでございます」

風が吹いた。

灰が舞う。

黒衣の人物の姿が、灰の中に薄れていく。

玲は手を伸ばした。

「待って」

だが、届かなかった。

最後に、鈴の音だけが残った。

ちりん。

目が覚めると、朝だった。

部屋は静かだった。

空気は冷たくも、熱くもない。

ただ、何かが終わりを待っている。

玲はベッドから起き上がった。

机の上には、八通の封筒。
開いたノートパソコン。
『四畳半銀河_最終稿』。

玲は玄関へ向かった。

ドアを開ける。

廊下には誰もいない。

郵便受けを開ける。

黒い封筒が、そこにあった。

九通目。

それは、驚くほど軽かった。

八通目よりも、七通目よりも、さらに軽い。

だが、その軽さは空虚ではなかった。

鳥の骨のような軽さ。
燃え尽きた灰のような軽さ。
これ以上、何も隠していないものの軽さ。

封筒の黒は、これまでで最も深かった。

光を吸い込む黒。

けれど、その縁には、金でも銀でもない、薄い虹色の光がにじんでいた。

玲は宛名を読んだ。

そこには、こう書かれていた。

次の物語を待つ者 様

封筒の裏には、初めて差出人のような文字があった。

ただ一行。

終わりを、お届けに参りました。

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