小説ラグナログ

終末の神話

届いた黒い封筒が、忘れようとしていた記憶を呼び戻す。紫の傘を差した少女との出会いが、燃え残っていた過去と僕を向き合わせる。世界樹が軋むように、終末は破滅ではなく、次の芽吹きの始まりだった。

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書いてから、少し恥ずかしくなった。

でも消さなかった。

夕方、会社での仕事を終えた玲は、まっすぐ帰宅した。

寄り道をしようかと思ったが、今日は部屋に帰りたかった。

部屋に帰って、続きを書きたかった。

アパートの階段を上る。

自分の部屋の前に立つ。

郵便受けを見る。

空。

玲は鍵を開けた。

部屋に入る。

昨日と同じ部屋。

狭い。
古い。
少し散らかっている。
窓は汚れている。
机も小さい。
生活感もある。

でも、灰色だけではなかった。

本棚の背表紙には色がある。
机の木目には濃淡がある。
カーテンには薄い生成りの温度がある。
パソコンの画面は白く光る。
小さな瓶の灰は、夕方の光の中で金色を帯びる。

玲は鞄を置き、スーツを脱いだ。

夕食の前に、少しだけ書くことにした。

ノートパソコンを開く。

フォルダ。

ラグナロク。

ファイルを開く。

これは破滅の物語ではない。

カーソルが点滅する。

玲はその先に、ゆっくりと言葉を足していった。

一行。
また一行。

うまく進まない。

途中で詰まる。

言葉が出ない。

それでも、昨日までのように絶望しなかった。

出ないなら、少し待てばいい。

駄目なら、書き直せばいい。

止まったなら、また開けばいい。

開けなかったものは腐る。

でも、開ければ腐るだけでは済まない。

風が入る。
光が入る。
雨が入ることもある。

そして時々、虹も入る。

玲はふと、窓の外を見た。

夕焼けが出ていた。

狭い窓の向こうに、赤と紫と金が混ざった空が見える。

あの灰色の部屋から、こんな色が見える日が来るとは思っていなかった。

いや、たぶん前から見えていた。

ただ、見ていなかっただけだ。

玲は立ち上がり、窓を開けた。

夕方の風が入ってくる。

少し湿っていて、少し冷たくて、でも気持ちがよかった。

机の上の九枚の白い紙が、風でわずかに揺れた。

一枚目。

開けなかったものは、腐るんですよ。

二枚目。

未練は、湿気を吸います。

三枚目。

腐った夢は、よく燃えます。

四枚目。

言わなかった言葉は、夜に根を張ります。

五枚目。

部屋が寒いのは、冬のせいではありません。

六枚目。

終わらせなかったものが、あなたを終わらせに来ます。

七枚目。

燃やすものを、間違えないでください。

八枚目。

灰の中に、次の物語が混ざっています。

九枚目。

これは破滅の物語ではない。

玲は、その九枚を一つのクリアファイルに入れた。

表紙に、黒いペンで小さく書いた。

夜の地図

それは誰に見せるものでもなかった。

自分のための地図。

また迷った時に開く地図。

夜が来た時、どこを通って朝へ出ればいいのかを思い出すための地図。

その夜、玲は『ラグナロク』を少しだけ書いて、早めに眠った。

夢は見なかった。

少なくとも、覚えていない。

翌朝、玲はまた会社へ行った。

その次の日も。

そのまた次の日も。

日常は続いた。

資料を作る。
メールを返す。
会議に出る。
上司に注意される。
後輩に助けられる。
コンビニで弁当を買う。
疲れて帰る。
書けない日もある。
一行だけの日もある。
まったく開けない夜もある。

でも玲は、もう「開けないまま」にしないようにした。

一週間開けなかったら、八日目には開く。

一行も書けなくても、ファイルだけは開く。

白紙を見つめるだけの日があっても、それを終わりとは呼ばない。

そう決めた。

『ラグナロク』は少しずつ進んだ。

速くはない。

誰かに見せる予定もない。

けれど、玲は書いた。

黒い封筒のこと。
夢を閉じた会社員のこと。
夜に届く手紙のこと。
終わりを配る黒衣の人物のこと。
灰の中に芽吹く物語のこと。

小説なのか、日記なのか、告白なのか、神話なのか、玲にはまだ分からない。

ただ、書かなければならないものだということだけは分かった。

ある金曜日の夜、玲は会社からの帰り道、ふと駅前の書店に寄った。

文芸誌の棚を見る。

新人賞の募集要項が載っている雑誌があった。

玲はそれを手に取った。

以前なら、胸がざわついてすぐに戻していた。

今もざわついた。

怖い。

応募するのか。
また落ちるのか。
誰にも読まれないのか。
年齢的に遅いのではないか。
今さら何をしているのか。

古い声は、まだ完全には消えていなかった。

けれど玲は、その声を聞いた上で、雑誌を買った。

レジで支払いを済ませ、袋を断り、鞄に入れる。

外に出ると、雨が降っていた。

細い雨だった。

傘は持っていない。

玲はコンビニで傘を買おうとして、やめた。

少しくらいなら濡れてもいい。

そう思った。

駅からアパートまでの道を、玲は雨の中で歩いた。

街灯の光が、濡れた路面に滲んでいる。

赤。
青。
白。
黄色。

雨の夜には、こんなに色があったのかと思った。

アパートの前に着いた時、玲はふと足を止めた。

エントランスの隅に、黒い影があった。

人が立っているようにも見えた。

玲は目を凝らした。

誰もいない。

ただ、古い掲示板と、傘立てと、階段の影があるだけだ。

玲は小さく息を吐いた。

その時、郵便受けの上に何かが置かれているのに気づいた。

黒い封筒ではなかった。

白い紙だった。

小さく折られた、ただの白い紙。

玲はそれを手に取った。

宛名はない。
差出人もない。
封もされていない。

開く。

そこには、たった一行だけ書かれていた。

よく、終わらせました。

玲は、その一文を見つめた。

雨の音が、エントランスの外で静かに鳴っている。

誰の字かは分からない。

けれど、誰の言葉かは分かる気がした。

玲は笑った。

少しだけ、泣きそうにもなった。

白い紙を丁寧に折りたたみ、鞄に入れる。

そして階段を上がった。

部屋に戻ると、玲は「夜の地図」のクリアファイルを開いた。

九枚の紙の最後に、今日の白い紙を加える。

よく、終わらせました。

十枚目。

黒い封筒ではない。

終わりを告げる手紙でもない。

ただ、見届けた者からの、短い余白のような言葉。

玲は机に向かった。

ノートパソコンを開く。

『ラグナロク』のファイルを開く。

今日は、続きを書ける気がした。

雨の音を聞きながら、玲は一行目を打った。

それでも雨は降る。

続けて、もう一行。

けれど、雨が降らなければ、虹の出る場所も分からない。

玲は手を止めた。

窓の外を見た。

雨は降り続いている。

今夜、虹は出ない。

それでいい。

虹は、雨の最中には見えない。

それでも、雨が終わった後の空に、色がかかることを玲はもう知っている。

だから書ける。

今がまだ雨の中でも。

玲は画面に向き直った。

そして、書き続けた。

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