小説ラグナログ

終末の神話

届いた黒い封筒が、忘れようとしていた記憶を呼び戻す。紫の傘を差した少女との出会いが、燃え残っていた過去と僕を向き合わせる。世界樹が軋むように、終末は破滅ではなく、次の芽吹きの始まりだった。

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雨上がりの空気が部屋に入ってくる。

湿っていて、少し冷たい。

けれど、もう冬の冷たさではなかった。

遠くの空には、やはり淡い色の弧がかかっている。

虹と言うには薄すぎる。

でも、確かにそこにある。

玲は机に戻った。

黒い皿の灰を、小さな瓶に移した。

捨てない。

その中に、次の物語が混ざっている。

部屋はまだ狭い。

会社の問題も残っている。
メールも返さなければならない。
人生が急に変わったわけではない。
玲が明日から小説家になるわけでもない。

それでも、世界は終わった。

少なくとも、玲を閉じ込めていた古い世界は。

そして、世界は始まった。

少なくとも、玲がこれから書く物語の中で。

玲はキーボードに指を置いた。

窓の外から、雨上がりの光が差し込む。

机の上の白い紙を照らす。

灰の入った小瓶が、光の中でかすかに金色を帯びた。

玲は書き始めた。

ラグナロクとは、世界が滅びる日の名ではなかった。

一度、手を止める。

それから、続きを打つ。

自分を閉じ込めていた古い物語が、ついに燃え尽きる夜の名だった。

カーソルが進む。

もう一行。

そして灰の中から、次の物語が芽吹く朝の名でもあった。

玲は息を吐いた。

長い長い息だった。

その息は、十年分の夜を少しだけ外へ逃がした。

部屋の外では、いつもの街が動いている。

誰かが階段を下りる。
誰かが笑う。
車が通る。
鳥が鳴く。
遠くで電車が走る。

世界は、何も知らない顔で続いている。

それでよかった。

玲は画面を見つめる。

これは破滅の物語ではない。

その一文の下で、カーソルが点滅している。

まるで、小さな鼓動のように。

どくん。

どくん。

終末の鼓動。

いや。

今はもう、始まりの鼓動だった。

終章 雨上がりの朝

翌日、玲は会社へ行った。

特別な朝ではなかった。

目覚ましはいつも通り鳴り、玲は一度止め、二度目で起きた。
洗面所の鏡には、寝不足の三十歳の男が映っていた。

目の下にはクマがある。
髪は跳ねている。
肌も荒れている。
劇的に若返ったわけでも、顔つきが別人のように変わったわけでもない。

それでも、玲はしばらく鏡の中の自分を見ていた。

嫌いではなかった。

好きになったわけではない。

ただ、これは自分だと思った。

夢を閉じた自分。
声を失くした自分。
灰色の部屋に住んでいた自分。
終わりを恐れた自分。
自分を燃やそうとした自分。
それでも、まだ作りたかった自分。

その全部が、鏡の中にいる。

玲は顔を洗った。

冷たい水が頬を流れる。

タオルで拭くと、鏡の中の自分の目が、昨日より少しだけはっきりして見えた。

部屋に戻る。

机の上には、九枚の白い紙が並んでいた。

一通目から八通目までの言葉。
そして、九通目の白紙だったもの。

そこには、玲の字で一行が書かれている。

これは破滅の物語ではない。

その横には、小さな瓶がある。

中には、黒い灰。

古い結末を燃やした灰。

玲はその瓶を手に取った。

光に透かすと、灰の中にほんの少しだけ金色の粒が混ざっているように見えた。
もちろん、実際にそんなものがあるはずはない。

ただの紙の灰だ。

どうせ無理だ。
今さら遅い。
才能がない。
恥をかくくらいなら書かない方がいい。

そういう言葉を燃やしただけの灰。

けれど玲には、それがただの灰には見えなかった。

捨ててはいけない。

あの黒衣の人物の声が、まだ耳の奥に残っている。

そこに、次の物語が混ざっておりますので。

玲は瓶を机の隅に置いた。

そして、古いノートパソコンを閉じた。

今朝は書かない。

会社に行く。

生活は続く。

そのことが、少しだけ不思議だった。

ラグナロクが起きたのに、会社はある。
終末の炎が燃えたのに、電車は動く。
古い物語が灰になったのに、出勤時間は迫っている。

世界は、玲の内側で起きた終末など知らない。

当たり前だ。

けれど、もうそれでよかった。

誰にも知られなくても、確かに終わったものがある。

誰にも見えなくても、確かに始まったものがある。

玲はスーツに着替えた。

ネクタイを締める。

昨日まで、それは首に巻く約束のようだった。
今日も約束であることに変わりはない。

会社へ行く約束。
社会の中で生きる約束。
生活を続ける約束。

けれど、今朝のネクタイは首輪ではなかった。

少なくとも、昨日までよりは。

玄関で靴を履き、ドアを開けた。

朝の廊下には、薄い光が差していた。

郵便受けを見る。

玲は足を止めた。

昨日までなら、そこに黒い封筒があると分かっていた。
手を入れる前から、冷たさや重さを予感していた。

今日、郵便受けは空だった。

チラシすら入っていない。

何もない。

玲はその空っぽの底を見つめた。

寂しいような、ほっとしたような、奇妙な気持ちだった。

黒い封筒はもう届かない。

少なくとも、同じ封筒は。

玲は郵便受けの扉を閉めた。

階段を下りる。

一階のエントランスを出ると、雨上がりの匂いがした。

アスファルト。
濡れた土。
排水溝。
どこかの家の朝食の匂い。
湿った緑。

昨日までなら、ただ蒸し暑いとしか思わなかったかもしれない。

けれど今朝は、その匂いにいくつもの層があるように感じた。

玲は駅へ向かって歩いた。

街はいつも通りだった。

自転車が通る。
学生が走る。
コンビニの前でトラックが荷下ろしをしている。
スーツ姿の人々が、同じ方向へ流れていく。

その中を歩きながら、玲はふと、自分も登場人物なのだと思った。

誰かの小説の、という意味ではない。

自分の物語の中にいるのだと。

それは少し怖いことだった。

物語には、失敗もある。
退屈な場面もある。
思い通りにいかない展開もある。
伏線のように見えたものが何でもなかったり、何気ない一文が後になって傷になることもある。

けれど、物語は続く。

続く限り、次の一行がある。

駅の改札を抜ける前に、玲は空を見上げた。

雲はまだ多い。

けれど、完全な灰色ではなかった。

雲の切れ間から、青が少しだけ見えている。

本当に少しだけ。

それでも玲は、その青を見つけた。

ホームには人が多かった。

いつもの朝の混雑。

玲は列の後ろに並び、電車を待った。

スマートフォンを開く。

会社のチャットには、昨日の不在中に溜まった連絡がいくつもある。

玲は一つずつ確認した。

謝るべきものは謝る。
返すべきものは返す。
今日やるべきことを整理する。

現実は、面倒だった。

そして、思っていたよりも、耐えられないものではなかった。

電車が来た。

玲は乗り込む。

車内は混んでいる。

吊革につかまり、窓に映る自分を見る。

その背後に、一瞬、黒い影が映った気がした。

玲は振り返った。

車内には、黒衣の人物はいない。

あるのは、スーツ姿の会社員、学生、イヤホンをした若者、眠そうな老人、ベビーカーを押す母親。

玲はもう一度、窓を見た。

影は消えていた。

けれど、遠くで小さな鈴の音がしたような気がした。

ちりん。

電車の走行音に紛れて、それはすぐに消えた。

会社に着くと、上司が玲を見た。

「おはよう。大丈夫か」

玲は少しだけ迷った。

そして、言った。

「大丈夫ではないです。でも、今日は来ました」

上司は一瞬、返答に困った顔をした。

それから、小さく笑った。

「正直だな」

「すみません」

「いや。じゃあ、無理しすぎない範囲で頼む」

「はい」

それだけだった。

でも、それでよかった。

玲は席に着き、パソコンを開いた。

仕事の画面が立ち上がる。

メール。
資料。
チャット。
タスク。

昨日までの続き。

玲は深く息を吸った。

そして、まず最初に、昨日止めていた資料を開いた。

導入文の修正。

玲はしばらく画面を見て、文章を書いた。

どんな人にも、終わらせられなかった物語があります。
けれど、終わりは失敗の証ではありません。
次の一歩のために、場所を空けることです。

書いてから、仕事のコピーとしては少し重すぎると思った。

玲は少し笑った。

それから、表現を柔らかく直した。

けれど、その最初の文章は消さずに、別のメモに移した。

いつか使うかもしれない。

自分の物語で。

昼休み、玲は会社近くの公園へ行った。

三通目の封筒を開いた日、黒い影を見た公園。

ベンチは空いていた。

玲はそこに座り、コンビニで買ったおにぎりを食べた。

空は少し晴れていた。

木の葉についた雨粒が、光を受けて小さく輝いている。

玲はスマートフォンのメモを開いた。

新しいメモを作る。

タイトルは、ラグナロク。

そこに、朝書いた文章を貼りつけた。

これは破滅の物語ではない。
ラグナロクとは、世界が滅びる日の名ではなかった。
自分を閉じ込めていた古い物語が、ついに燃え尽きる夜の名だった。
そして灰の中から、次の物語が芽吹く朝の名でもあった。

玲はその文章を読み返した。

まだ粗い。

少し説明的かもしれない。

けれど、今はそれでいい。

ここから始めればいい。

その時、隣のベンチに小さな男の子が座った。

母親が自動販売機で飲み物を買っている間、男の子は手に持った紙飛行機を見つめていた。

白い紙で作られた紙飛行機。

端が少し濡れている。

男の子はそれを飛ばそうとして、うまくいかず、足元に落とした。

一度。
二度。
三度。

そのたびに拾い、また飛ばそうとする。

玲は、それを見ていた。

男の子は四度目で、少しだけ遠くへ飛ばした。

紙飛行機は風に乗り、ベンチの前を横切って、濡れた砂場のそばに落ちた。

男の子は笑った。

それだけのことだった。

けれど玲は、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。

うまく飛ばなくても、また折ればいい。

濡れても、破れても、また紙を探せばいい。

そんな単純なことを、大人になると忘れてしまう。

玲はメモに一行足した。

紙は、燃やすこともできる。けれど、飛ばすこともできる。

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