会議室を出る時、玲は自分の首元を押さえた。
声はある。
けれど、自分の声ではない。
四通目の宛名が、胸の奥で静かに光っていた。
声を失くした者 様。
昼休み、玲は会社の屋上に出た。
屋上といっても、喫煙スペースと室外機が並ぶだけの狭い場所だった。
フェンス越しに、灰色のビル群が見える。
空は曇っていた。
雲は低く、街全体を薄い蓋で覆っているようだった。
玲はポケットから四通目の白い紙を取り出した。
言わなかった言葉は、夜に根を張ります。
風に煽られて、紙が少し震えた。
「言えるわけないだろ」
玲は紙に向かって言った。
今度は声が出た。
小さいが、自分の声だった。
「言ったらどうなるんだよ」
風が吹く。
答えはない。
「まだ書きたいなんて、三十にもなって言えるわけないだろ」
言ってから、玲は自分で驚いた。
まだ書きたい。
その言葉は、初めて声になった。
屋上の室外機が低く唸っている。
遠くで車のクラクションが鳴る。
空は灰色のまま。
何も変わらない。
それなのに、玲の胸の奥で何かが少しだけ動いた。
言葉は、口に出すと形を持つ。
形を持つと、もうなかったことにはできない。
玲は白い紙を折りたたみ、封筒に戻した。
会社へ戻る前に、フェンス越しの街を見た。
ビルの窓がいくつも並んでいる。
その一つ一つに人がいて、言わなかった言葉を抱えているのかもしれない。
昔の玲なら、そこから物語を書けた。
今はまだ書けない。
けれど、書けないという事実だけは、少しだけ見えるようになった。
仕事を終えて部屋に戻ると、玲はすぐにノートパソコンを開いた。
『四畳半銀河』のファイル。
昨夜開いたままになっていた。
玲は三十七ページ目までスクロールした。
物語が止まっている場所。
主人公は、狭い部屋の中で、窓の外に広がるはずの銀河を見つめている。
けれど、窓は開かない。
部屋から出られない。
何かを言おうとして、言葉が出ない。
玲は、その場面を読み返した。
十年前の自分は、そこで筆を止めている。
なぜ止めたのか、今なら少し分かる気がした。
その主人公に何を言わせればいいのか、分からなかったのだ。
部屋から出たいのか。
出たくないのか。
助けてほしいのか。
一人でいたいのか。
世界を憎んでいるのか。
世界に見つけてほしいのか。
全部、玲自身が分からなかった。
だから書けなかった。
玲はキーボードに指を置いた。
何かを書こうとした。
カーソルが白い余白で点滅している。
一文字。
たった一文字でいい。
けれど、指は動かなかった。
代わりに、玲は別のファイルを開いた。
新規テキスト。
画面は白い。
そこに、今日屋上で言った言葉を打った。
まだ書きたい。
それだけ。
小説ではない。
物語でもない。
ただの本音だった。
玲は、その一行を見つめた。
すると、部屋のどこかで、かすかな音がした。
きい。
また、木が軋むような音。
玲は天井を見上げた。
天井の隅に、古い染みがあった。
今まで気にしたことはなかった。
だが今夜、その染みは枝の形に見えた。
細く、黒い枝。
四方へ伸び、天井を這い、壁に沿って下りてくる。
その枝から、見えない根が部屋の中に張り巡らされているようだった。
玲は目を閉じた。
疲れている。
そう思った。
けれど、目を閉じても枝は消えなかった。
むしろ、よりはっきり見えた。
部屋の中央に、一本の樹が立っている。
枝は天井を突き抜け、根は床の下へ沈み、幹は玲の胸の奥を通っている。
世界樹。
なぜか、その言葉が浮かんだ。
玲は北欧神話に詳しいわけではなかった。
昔、小説の資料として少し読んだことがある程度だ。
けれど、その名だけは知っていた。
ユグドラシル。
九つの世界を支える樹。
そして、終末の日に揺れる樹。
玲は目を開けた。
部屋はいつもの部屋だった。
六畳にも満たない狭い部屋。
机、ベッド、本棚、押し入れ、古いパソコン。
世界樹など、どこにもない。
それでも、天井の染みは枝に見えた。
玲は机の上に四通の黒い封筒を並べた。
一通目。
開けなかったものは、腐るんですよ。
二通目。
未練は、湿気を吸います。
三通目。
腐った夢は、よく燃えます。
四通目。
言わなかった言葉は、夜に根を張ります。
四つの言葉が、部屋の中で根を伸ばしている。
開けなかったもの。
未練。
腐った夢。
言わなかった言葉。
それらは別々ではなかった。
すべて、玲の中で繋がっている。
天井の枝が、かすかに揺れた気がした。
その夜、玲はまた夢を見た。
夢の中で、玲は巨大な樹の根元に立っていた。
根は黒く、太く、大地を割って伸びている。
枝は空を覆い、葉の代わりに無数の紙片が吊り下がっていた。
原稿用紙。
封筒。
便箋。
破り捨てたメモ。
送れなかった手紙。
言えなかった言葉。
それらが風もないのに揺れている。
遠くで、誰かの怒号が聞こえた。
一人ではない。
いくつもの声。
何層にも重なった声。
その中に、玲自身の声があった。
まだ書きたい。
その声は小さかった。
けれど、確かに聞こえた。
すると樹の根元で、黒い影が動いた。
誰かが立っている。
黒い衣を着た人物。
郵便配達員には見えなかった。
喪服にも、祭服にも、舞台衣装にも見える黒い服。
帽子か、ヴェールのようなものが顔の上に影を落としている。
その人物は、こちらを見ているようで、見ていない。
玲ではなく、樹を。
樹ではなく、そのさらに向こうの終わりを見届けているようだった。
玲は声を出そうとした。
あなたは誰だ。
だが、夢の中でも声は出なかった。
黒衣の人物は、わずかに首を傾けた。
そして、歌うように静かな声で言った。
「声は、失くしたのではありません」
玲は動けなかった。
「閉じ込めたのでございます」
その言葉と同時に、世界樹の枝が大きく揺れた。
紙片がいっせいに鳴る。
ざわざわと。
さざめくように。
燃える前の森のように。
玲は目を覚ました。
夜明け前だった。
部屋は薄暗い。
机の上には四通の黒い封筒。
パソコンの画面には、一行だけのテキスト。
まだ書きたい。
玲はその一行を見た。
夢の声が、まだ耳の奥に残っている。
声は、失くしたのではありません。
閉じ込めたのでございます。
玲は立ち上がり、洗面所へ向かった。
鏡の前に立つ。
顔色は悪い。
目の下には深い影。
髪も乱れている。
それでも玲は、鏡の中の自分に向かって小さく言った。
「まだ書きたい」
声は震えていた。
けれど、昨日より少しだけ、自分のものだった。
朝が来る。
玲は玄関へ向かった。
まだ五通目が届いているかどうか、確かめる前から分かっていた。
ドアを開ける。
廊下には、冷たい空気が溜まっていた。
郵便受けに手を入れる。
黒い封筒。
五通目。
これまでのどの封筒よりも重い。
玲は宛名を見た。
そこには、こう書かれていた。
灰色の部屋に住む者 様
封筒の表面には、霜のような白い曇りが薄く浮かんでいた。