意味は分かるようで、分からない。
けれど、読んだ瞬間、胸の奥に何かが染み込んでくる感じがした。
湿った紙の匂い。
閉め切った部屋。
梅雨時の押し入れ。
何年も開けていない段ボール。
その中にしまわれた古いノート。
玲は、急に思い出した。
大学を卒業する時、玲は原稿の入ったノートやプリントを一つの段ボールに詰めた。
実家には送らず、引っ越し先にも持ってきた。
捨てるつもりはなかった。
けれど開けるつもりもなかった。
その段ボールは、今も部屋の押し入れの奥にある。
十年近く、一度も開けていない。
玲は白い紙を見つめた。
未練は、湿気を吸います。
個室の外で、水を流す音がした。
誰かが手を洗い、ドアを開けて出ていく。
普通の音。
普通の会社。
普通の平日。
その真ん中で、玲だけが別の場所に立っているようだった。
手紙を折りたたみ、封筒に戻す。
その時、玲は一通目の封筒をまだ開けていないことに気づいた。
昨日の黒い封筒は、引き出しの中に入れたままだ。
中身を読んでいない。
なのに二通目は届いた。
玲は、急に不安になった。
一通目を開けなかったから、二通目が届いたのか。
それとも、開けても開けなくても届くのか。
そして、明日も届くのか。
三通目が。
玲はトイレの個室で、しばらく動けなかった。
仕事を終えた玲は、帰り道にコンビニへ寄った。
弁当とペットボトルの水を買う。
レジ袋を断って、商品を鞄に入れる。
黒い封筒と弁当が同じ鞄の中にあることが、ひどく不自然に思えた。
部屋に戻ると、玲はすぐに押し入れの前に座った。
押し入れを開ける。
布団、季節外れのコート、古いバッグ、使っていない掃除機。
その奥に、段ボール箱があった。
ガムテープは黄ばんでいた。
箱の側面に、油性ペンで文字が書かれている。
原稿・ノート類
自分の字だった。
玲は、その箱を見た。
開けるべきだと思った。
けれど身体は動かなかった。
黒い封筒よりも、この段ボールの方が怖い。
中にあるのは過去だ。
しかも、死んだ過去ではない。
まだ自分が何かになれると信じていた頃の、妙に生々しい過去。
それは亡霊よりたちが悪い。
玲は段ボールに手を伸ばした。
指先がガムテープに触れる。
その瞬間、ふっと湿った匂いがした。
紙が湿気を吸った匂い。
古い本の匂い。
閉じ込められた時間の匂い。
玲は手を引いた。
無理だった。
箱を開けることができなかった。
代わりに、机の引き出しを開けた。
昨日の黒い封筒がそこに入っている。
一通目。
九枝玲 様。
まだ開けていない者へ。
玲は封筒を取り出した。
昨日より重い。
確かに重い。
紙一枚の封筒ではない。
中に薄い文庫本でも入っているような重みがあった。
玲は封を切った。
中には、やはり白い紙が一枚だけ。
そこに書かれていた。
開けなかったものは、腐るんですよ。
玲は息を止めた。
二通目と同じ筆跡。
同じ黒いインク。
同じ静かな残酷さ。
その言葉を読んだ瞬間、押し入れの段ボール箱が、部屋の奥でかすかに軋んだ気がした。
玲は振り向いた。
箱は何も変わらず、そこにある。
ただの段ボール。
ただの古い原稿。
ただの過去。
それなのに、部屋の空気が少し湿っていた。
窓は閉まっている。
雨も降っていない。
玲は、黒い封筒を机の上に置いた。
一通目と二通目。
二つ並べると、机の上に小さな夜が二つできたように見えた。
玲はその夜を見つめながら、ふいに思った。
この封筒は、自分に何を開けさせようとしているのだろう。
押し入れの段ボールか。
古いパソコンの『四畳半銀河』か。
それとも、もっと別のものか。
玲は立ち上がり、窓を開けた。
外の空気はぬるかった。
湿った夜風が部屋に入ってくる。
その風に混じって、遠くで救急車のサイレンが鳴っていた。
玲は窓辺に立ったまま、ぼんやりと街を見下ろした。
向かいのマンションの窓には、いくつもの明かりが灯っている。
誰かが夕食を食べ、誰かがテレビを見て、誰かが電話をし、誰かが子供を寝かしつけている。
どの部屋にも物語がある。
そんなことを、昔はよく考えた。
一つの窓に一つの宇宙。
一人の生活に一つの銀河。
だから小説を書きたかった。
玲は、そういう世界の見方をしていた。
いつからだろう。
窓の明かりを、ただの電気代としてしか見られなくなったのは。
玲は窓を閉めた。
部屋に戻ると、黒い封筒が机の上に二通並んでいる。
その周りだけ、夜が深い。
古いノートパソコンを開いた。
カーソルが、デスクトップのフォルダに吸い寄せられる。
四畳半銀河
玲は、今度こそ開こうとした。
ダブルクリックすればいい。
たったそれだけだ。
指が動かない。
代わりに、フォルダ名をじっと見つめた。
四畳半銀河。
あの頃の自分は、本気でそう思っていた。
狭い部屋にも、銀河はある。
小さな孤独にも、神話は宿る。
誰にも見向きされない人生にも、物語はある。
玲は、笑いそうになった。
泣きそうにもなった。
そのどちらもできなかった。
その夜、玲はまた夢を見た。
夢の中で、押し入れの段ボール箱が開いていた。
中から、原稿用紙が溢れている。
ノートが、コピー用紙が、印刷した原稿が、次々と床にこぼれ落ちる。
紙は濡れていた。
雨に濡れたわけではない。
涙に濡れたわけでもない。
長いあいだ閉じ込められ、湿気を吸い、重くなった紙だった。
一枚一枚に、文字が書かれている。
書きかけの文章。
途中で止まった台詞。
名前だけ決まった登場人物。
行き先を失った章タイトル。
それらが床を這い、玲の足首にまとわりついた。
玲は逃げようとした。
だが紙は、根のように伸びていた。
畳の下へ。
壁の中へ。
天井の隅へ。
部屋の中心に、一本の黒い樹が立っていた。
その枝には、未完の原稿が葉のように吊り下がっている。
葉は一枚ずつ湿って、重く、今にも落ちそうだった。
樹の根元に、黒い封筒が二通置かれている。
その奥から、誰かの声がした。
声は近くもあり、遠くもあった。
男とも女ともつかない。
若くも老いてもいない。
その声は、歌うように静かだった。
「開けなかったものは、腐るんですよ」
玲は振り向いた。
誰もいない。
けれど、黒い樹の枝がわずかに揺れた。
「未練は、湿気を吸います」
枝から、一枚の原稿が落ちた。
そこには、かつて玲が書いた最初の一文があった。
この部屋には、銀河がある。
玲はその文章を見た。
胸が痛んだ。
その一文は下手だった。
青臭かった。
恥ずかしかった。
けれど、嘘ではなかった。
玲は手を伸ばした。
原稿に触れようとした瞬間、紙は黒く滲んだ。
インクが水を吸ったように広がり、文字が読めなくなっていく。
玲は叫ぼうとした。
声が出なかった。
黒い樹の枝の向こうで、また鼓動が鳴った。
どくん。
どくん。
今度は、昨日より近かった。
目が覚めると、朝だった。
玲はベッドの上で起き上がった。
部屋は薄い灰色の光に沈んでいる。
机の上には、一通目と二通目の黒い封筒。
押し入れの前には、昨日引き出したままの段ボール箱。
そして、玄関の向こうに郵便受けがある。
玲はしばらく動かなかった。
見に行きたくなかった。
だが、もう分かっていた。
届いている。
きっと、三通目が。
玲はベッドから降りた。
足元の床が、少し冷たかった。
玄関へ向かう。
鍵を開け、ドアを少しだけ開ける。
朝の廊下には誰もいない。
玲は郵便受けに手を入れた。
指先に、冷たい紙が触れた。
三通目の黒い封筒。
昨日より、さらに重かった。
宛名には、こう書かれていた。
「夢を閉じた者 様」