小説ラグナログ

終末の神話

届いた黒い封筒が、忘れようとしていた記憶を呼び戻す。紫の傘を差した少女との出会いが、燃え残っていた過去と僕を向き合わせる。世界樹が軋むように、終末は破滅ではなく、次の芽吹きの始まりだった。

1 / 19

第一章 一通目の黒い封筒

一通目の黒い封筒が届いた朝、九枝玲は三十歳になって二週間が経っていた。

三十歳。

その数字に特別な意味があると思っていた時期が、玲にもあった。

十代の頃は、三十歳の自分など、もっと遠い場所にいると思っていた。
何かを成し遂げているか、少なくとも、何かを成し遂げようとしている途中にいると思っていた。

本棚には自分の名前が印刷された本が並び、誰かがその一冊を手に取って、夜の部屋で読んでいる。
そんな光景を、何度も想像した。

二十歳の頃、玲は小説家になりたかった。

それは夢というより、ほとんど思い込みに近かった。
自分の中にはまだ誰も読んだことのない物語が眠っていて、それを掘り起こしさえすれば、いつかどこかへ届くのだと信じていた。

大学の狭い部屋で、夜通しキーボードを叩いた。
朝方のコンビニで買った冷えたコーヒーを飲みながら、自分だけが世界の秘密を知っているような気分でいた。

その頃に書き始めた小説があった。

タイトルは、四畳半銀河。

今思えば、青臭い題だった。

けれど当時の玲には、それが本気だった。
たった四畳半の部屋でも、そこに一人の人間の孤独と夢と痛みがあるなら、銀河くらい広がるはずだと思っていた。

部屋の天井は星空になり、机の傷は星座になり、床に落ちた紙くずは小惑星になった。
書けなかった夜さえ、まだ物語の一部だった。

玲は、その頃の自分を思い出すのが苦手だった。

思い出すたび、胸の奥で何かが乾いた音を立てる。
折れたわけではない。
燃えたわけでもない。
ただ、放置されて脆くなった何かが、少し動くだけで崩れそうになる。

今の玲は、小説家ではない。

都内の小さなWeb制作会社で、営業企画のような、進行管理のような、何とも言いづらい仕事をしている。

毎日、他人の言葉を整える。
商品の魅力を伝える文章。
クライアントの挨拶文。
キャンペーンの告知文。
問い合わせへの返信。
謝罪文。
確認文。
議事録。
修正依頼。

言葉は毎日、山ほど書いている。

けれど、自分の物語だけは、一行も進まなかった。

その朝も、玲はいつも通り、スマートフォンのアラームを三度止めてから起きた。

カーテンの隙間から差し込む光は白く濁っていた。
晴れているのか曇っているのか、部屋の中からでは分からない。
窓ガラスは少し汚れていて、外の景色を薄い膜で隔てていた。

部屋は六畳と書かれていたが、実際にはもっと狭く感じた。

シングルベッド。
小さな机。
本棚。
衣装ケース。
古いノートパソコン。
読みかけの本。
コンビニ袋。
脱ぎっぱなしのワイシャツ。

生活に必要なものを置いただけで、部屋の余白はほとんど消えた。

本棚の一番下には、昔使っていた小説指南書や文芸誌がまだ残っている。
新人賞の募集要項を切り抜いたものもあった。
今ではもう、締切も出版社名も古くなっている。

玲はそれらを捨てられなかった。

捨てるほど大切ではない。
でも、捨てるには、あまりにも自分だった。

洗面所で顔を洗った。

鏡の中の自分は、ひどく普通だった。

寝癖のついた髪。
薄いクマ。
少し乾いた唇。
量販店で買ったワイシャツ。
無難な紺のネクタイ。

どこにでもいる三十歳の会社員。

昔、自分だけはそうならないと思っていた顔が、そこにあった。

玲はネクタイを締めた。

締めるというより、首に毎朝同じ約束を巻きつけているような気がした。

会社へ行く。
遅れない。
返事をする。
謝る。
調整する。
確認する。
今日もなんとか終わらせる。

それだけの一日。

玄関を出る前に、玲は郵便受けを開けた。

いつもなら、ほとんど見ない。
チラシか、広告か、重要そうに見えるだけの紙が入っているだけだからだ。

けれどその朝は、なぜか開けた。

理由は分からない。

もしかすると、何かが玲を呼んでいたのかもしれない。

郵便受けの底に、それは沈んでいた。

黒い封筒だった。

最初、玲はチラシかと思った。
けれど、手に取った瞬間、それが普通の紙ではないことが分かった。

封筒は黒かった。

艶のない、光を吸い込むような黒。
喪服の黒とも、夜の黒とも違う。
もっと乾いていて、もっと古い黒だった。

切手は貼られていない。
消印もない。
差出人の名前もない。

ただ、表に玲の名前だけが書かれていた。

九枝玲 様

それだけだった。

筆跡は細く、古い万年筆で書いたように少しかすれていた。
達筆ではない。
けれど妙に整っていて、読みづらいのに目を離せない。

玲は廊下でしばらく立ち尽くした。

隣の部屋のドアが開く音がして、玲は慌てて封筒を鞄に押し込んだ。

「おはようございます」

隣人の女が軽く会釈した。

「おはようございます」

玲も反射的に返した。

声はいつも通りだった。
封筒の存在など知らない声だった。

駅へ向かう道で、玲は何度か鞄の中を見た。

黒い封筒は、書類の間に挟まっていた。
そこだけ、鞄の中が暗く沈んでいるように見えた。

悪戯だろうか。

そう思った。

だが、誰が。
何のために。

会社の人間か。
昔の知り合いか。
大学時代の友人か。
いや、玲の住所を知っている人間は多くない。

それに、悪戯にしては静かすぎる。

脅迫にしては丁寧すぎる。

招待状にしては、あまりにも不吉だった。

電車の中は混んでいた。

玲は吊革につかまりながら、鞄の中の封筒の重みを意識していた。
紙一枚のはずなのに、妙に存在感がある。

目を閉じると、黒い封筒の表面が浮かんだ。
九枝玲 様。

自分の名前。

毎日いくらでも見ている名前なのに、あの封筒に書かれていると、知らない誰かの名前のように見えた。

会社に着くと、玲はいつものようにパソコンを開いた。

メールが溜まっていた。

件名だけで、すでに疲れた。

【再送】ご確認のお願い。
【至急】本日中にご対応ください。
【共有】来週MTGアジェンダ。
【修正依頼】LPコピー第3稿。
【リマインド】未提出資料について。

玲は一つずつ開いた。

確認します。
調整します。
本日中に対応します。
ご指摘ありがとうございます。
大変失礼いたしました。

同じような言葉を何度も打った。

手は動く。
頭も、それなりに働く。
玲は会社員としては、決して無能ではなかった。

ただ、心が動かなかった。

昼休み、玲はコンビニで買ったおにぎりを食べながら、鞄から黒い封筒を取り出した。

周りに誰もいない会議室だった。
蛍光灯の白い光の下で見ると、封筒の黒さはいっそう目立った。

封は黒い蝋で閉じられていた。

蝋には、小さな紋章のようなものが押されている。

枝にも見えた。
狼の牙にも見えた。
ひび割れた羽にも見えた。

玲は親指で蝋に触れた。

冷たかった。

紙の封筒なのに、冷蔵庫から出したばかりの金属のような冷たさだった。

開けるべきだ。

そう思った。

ただの悪戯なら、それで済む。
中身を見れば、正体が分かる。
分かれば、捨てられる。

玲は封筒の端に指をかけた。

その瞬間、なぜか手が止まった。

開けたくない。

理由はない。

脅迫文かもしれない。
誰かからの手紙かもしれない。
過去の何かかもしれない。
未来の何かかもしれない。

どれでもいいはずだった。

それなのに玲は、封を切ることができなかった。

まるで、中身を読む前から、自分が何を読まされるのか知っているようだった。

会議室の時計が、十二時四十五分を指していた。

玲は封筒を鞄に戻した。

午後の会議では、クライアントが何度も「世界観」という言葉を使った。

「もう少し、ブランドの世界観が伝わるようにしたいんですよね」

「ユーザーに刺さる物語性というか」

「ただの商品説明じゃなくて、共感できるストーリーが欲しいんです」

玲は頷いた。

「そうですね。ストーリー性を持たせる方向で、再構成します」

自分の口から出た言葉が、やけに空っぽに聞こえた。

ストーリー。

物語。

玲は、誰かの商品のためには物語を考えられる。
売るための物語。
共感させるための物語。
クリックさせるための物語。

けれど、自分のための物語だけは、もう書けなかった。

仕事が終わったのは、二十一時を過ぎていた。

帰りの電車で、玲はスマートフォンを見続けた。
SNSの短い動画が次々と流れていく。
誰かが笑い、誰かが怒り、誰かが何かを語り、誰かが成功し、誰かが夢を叶えた話をしていた。

玲は何も感じなかった。

感じないようにしていた。

部屋に帰ると、ワイシャツを脱ぐ気力もなく、机の前に座った。

鞄から黒い封筒を取り出す。

机の上に置く。

部屋の中で見ると、封筒はさらに黒かった。

周りのものが、少し遠ざかるように見えた。
本棚も、パソコンも、空のペットボトルも、コンビニ袋も。
黒い封筒を中心に、部屋の空気がわずかに沈んでいる。

玲は古いノートパソコンを開いた。

普段仕事で使っているものではない。
学生時代から使っている、動作の遅いノートパソコンだった。

電源を入れるのは久しぶりだった。

起動に時間がかかった。

画面に映る自分の顔は、昼間よりさらに疲れて見えた。

デスクトップには、いくつかの古いフォルダが残っている。

写真。
講義資料。
応募原稿。
短編メモ。
小説案。
新人賞。

その中に、一つだけ、長い間消せなかったフォルダがあった。

四畳半銀河

玲はカーソルをそこに重ねた。

開かない。

開けない。

黒い封筒と同じだった。

NOVEL 一覧へ