虹は、救いではなかった。
ただ、雨が確かに降ったことと、雨がいつか止むことを、同時に示す色だった。
この一文を書いた時、玲は少し泣いた。
なぜ泣いたのかは分からない。
悲しかったのか、嬉しかったのか、安心したのか、悔しかったのか。
分からないまま、泣いた。
そして泣きながら、書き続けた。
夜になって、『ラグナロク』の初稿が完成した。
玲は最後の一文を打ち終え、しばらく画面を見つめていた。
今はもう、始まりの鼓動だった。
終わった。
二つ目の終わりだった。
『四畳半銀河』を終わらせた時とは違う感覚だった。
あの時は、古い夢の葬儀だった。
今は、新しい物語の産声に近かった。
玲は保存した。
何度も保存した。
そしてファイルを閉じた。
時計は、夜の十一時を少し過ぎていた。
玲は椅子にもたれ、天井を見上げた。
天井の染みは、まだそこにあった。
枝に見える。
けれど、以前ほど怖くはなかった。
ユグドラシル。
九つの世界を支える樹。
終末の日に揺れる樹。
そして、焼け跡の世界にまた影を落とす樹。
玲は、いつかこの樹の話も書けるかもしれないと思った。
世界が終わった後、残された樹の話。
灰の中で、誰かの次の物語を待つ樹の話。
玲は立ち上がり、窓を開けた。
夜風が入ってくる。
湿った、ぬるい風。
遠くで電車の音がする。
街の明かりが、狭い窓の外で瞬いている。
その一つ一つが、小さな部屋であり、小さな銀河だった。
玲は机に戻り、小さな瓶の灰を手に取った。
「終わりました」
誰にともなく言った。
返事はない。
けれど、どこか遠くで鈴が鳴った気がした。
ちりん。
玲は笑った。
そして、パソコンを閉じた。
その夜、黒い封筒は届かなかった。
白い紙も届かなかった。
夢にも、黒衣の人物は現れなかった。
ただ、深く眠った。
久しぶりに、朝まで一度も目を覚まさずに眠った。
翌朝。
玲は目覚ましの音で起きた。
月曜日だった。
会社がある。
玲は少しだけうんざりした。
そのうんざりも、どこか人間らしくて、少しだけ笑えた。
顔を洗い、着替え、鞄にノートパソコンを入れる。
ふと思いついて、『ラグナロク』の原稿をUSBメモリにも保存した。
それから、もう一つ。
新人賞の募集要項が載った雑誌を鞄に入れた。
応募するかどうかはまだ分からない。
でも、持っていく。
それだけでいい。
玄関を出る。
郵便受けは空だった。
玲は階段を下りた。
外へ出ると、朝の光が眩しかった。
昨日の雨の名残で、道端に小さな水たまりがある。
そこに空が映っていた。
青。
はっきりとした青。
玲は足を止め、水たまりを見た。
小さな水面の中に、電線と雲と、細く欠けた光が揺れている。
まるで、四畳半の部屋に見つけた銀河みたいだった。
玲は歩き出した。
駅へ向かう人の流れに入る。
今日も仕事がある。
今日も疲れるだろう。
今日も何かを間違えるかもしれない。
今日も、思うように書けないかもしれない。
それでも、もう終わりではなかった。
終わりは来る。
これからも何度も来る。
そのたびに怖いだろう。
そのたびに、また灰色の部屋に戻りそうになるだろう。
でも玲は知っている。
黒い封筒が届く夜があることを。
終わりを配る者が、どこかで見届けていることを。
燃やすものを間違えてはいけないことを。
灰の中には、次の物語が混ざっていることを。
そして、雨の後にしか見えない色があることを。
駅へ向かう途中、玲はスマートフォンを取り出した。
メモアプリを開く。
新しいメモを作る。
タイトルは、まだ決めていない。
本文に、一行だけ打った。
終わりを恐れる人ほど、本当は始まりを待っている。
玲はその一文を読み返し、少しだけ笑った。
また、物語になりそうだった。
空は青い。
けれど、遠くにはまだ雲もある。
それでいい。
玲はスマートフォンをしまい、歩き出した。
彼の背後で、誰かが小さく鈴を鳴らしたような気がした。
ちりん。
振り返っても、誰もいなかった。
ただ、雨上がりの光だけが、街の端で静かに揺れていた。