小説ラグナログ

終末の神話

届いた黒い封筒が、忘れようとしていた記憶を呼び戻す。紫の傘を差した少女との出会いが、燃え残っていた過去と僕を向き合わせる。世界樹が軋むように、終末は破滅ではなく、次の芽吹きの始まりだった。

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第八章 まだ作りたい者

八通目の封筒は、温かかった。

熱いわけではない。
春先の陽だまりに置かれた紙のような、かすかな温度。

玲は郵便受けの前で、その封筒をしばらく両手に包んでいた。

黒い紙の端には、夢で見た通り、ほんのわずかに金色の光が滲んでいた。
それは印刷でも、箔押しでもない。
朝の光が偶然反射しているだけにも見える。

けれど玲には、その黒い封筒が、内側からうっすら光っているように思えた。

まだ作りたい者 様

宛名を読む。

その言葉は、これまでのどの宛名よりも痛かった。

開けなかった者。
夢を閉じた者。
声を失くした者。
灰色の部屋に住む者。
終わりを恐れる者。
自分を燃やそうとした者。

それらは、どれも玲を責める言葉だった。
いや、責めているわけではなかったのかもしれない。
けれど玲には、そう聞こえていた。

だが八通目は違った。

まだ作りたい者。

そこには、裁きよりも、発見があった。

玲自身でさえ見失っていたものを、誰かが指差したようだった。

まだ。

まだ、作りたい。

玲は封筒を胸元に寄せた。

それだけで、身体の奥の冷えが少しだけ和らいだ気がした。

部屋に戻ると、机の上には七通の黒い封筒が並んでいた。

その横で、古いノートパソコンが低い音を立てて動いている。
画面には、昨夜から朝方まで書いた『四畳半銀河』の原稿。

五十ページ。

途中で止まっていた物語は、十年ぶりに先へ進んだ。

うまいかどうかは分からない。

たぶん、うまくはない。

比喩はまだ多いし、展開もぎこちない。
主人公の台詞は少し説明的で、黒い狼の場面など、冷静に読めば恥ずかしいかもしれない。

でも、書いている間、玲は久しぶりに呼吸をしていた。

会社の資料を書く時の呼吸ではない。
相手に合わせて言葉を整える呼吸でもない。
誰かの承認を待つための呼吸でもない。

自分の内側から、言葉を外へ出す呼吸。

その感覚を、玲は忘れていた。

八通目の封筒を机に置く。

七通の黒い封筒の横に並べると、不思議なことに、八通目だけ少し浮いて見えた。

黒いはずなのに、暗闇ではない。

灰の中に埋まった種のようだった。

玲は蝋封に触れた。

今朝の蝋は柔らかかった。

黒い蝋の紋章は、枝にも牙にも羽にも見えた。
しかし今日は、そのどれでもありながら、芽にも見えた。

ひび割れた黒い蝋の隙間から、何か小さなものが顔を出そうとしている。

玲はゆっくり封を切った。

中には白い紙が一枚。

だが、その紙もまた、これまでと少し違っていた。

完全な白ではない。

紙の繊維の奥に、淡い金色が混ざっている。
朝日に透かすと、わずかに光った。

玲は開いた。

そこには、一行だけ書かれていた。

灰の中に、次の物語が混ざっています。

玲は、その一文を声に出して読んだ。

「灰の中に、次の物語が混ざっています」

声は、昨日より自然だった。

自分の声だった。

玲は机の上の原稿を見た。

『四畳半銀河』。

十年前に止まった物語。
腐りかけていた夢。
湿気を吸った未練。
燃やそうとした原稿。

そのすべては、灰になるべきものだったのかもしれない。

けれど灰は、無ではない。

燃え尽きた後に残るもの。
何があったのかを示す最後の証拠。
そして、土に混ざれば、次のものを育てるもの。

玲は初めて、終わりという言葉を少し違う角度から見た。

終わりは、消滅ではないのかもしれない。

終わりは、場所を空けることなのかもしれない。

部屋の空気が、昨日より少し明るい。

雨は上がっていた。

窓の外の空には、まだ雲が残っている。
けれど、その隙間から白い光が落ちていた。

玲はカーテンを開けた。

朝の光が部屋に入る。

机の上の封筒たちが照らされる。

一通目から七通目までは、光を吸い込むように黒い。
八通目だけが、光を受けてわずかに縁を輝かせていた。

玲は床に散らばった原稿を拾い、順番に並べ直した。

その作業は、葬儀の準備にも、種まきの準備にも似ていた。

古い文章を読み返す。

恥ずかしいところもある。
未熟なところもある。
直したいところも山ほどある。

しかし玲は、もうそれを全部なかったことにしたいとは思わなかった。

この下手な文章も、自意識の強い比喩も、何かに届くと信じていた若い熱も、全部が自分だった。

燃やすとしても、それは憎んで燃やすのではない。

弔うために燃やす。

次へ行くために、灰にする。

玲はノートパソコンに向かった。

『四畳半銀河』の続きを開く。

昨夜書いた最後の行。

終わらせなければ、生きたことにもならない。

玲はその一文を見つめた。

そして、その下に新しく書いた。

彼は、部屋を出るために狼の鎖をほどいたのではなかった。
部屋の中に銀河があると、もう一度信じるためにほどいたのだった。

書いた瞬間、胸の奥に柔らかい痛みが広がった。

玲は少しだけ笑った。

下手だ。

けれど、悪くない。

その日は、会社へ行った。

休みたい気持ちはあった。

一日中、部屋にいて書き続けたいとも思った。

しかし玲は、スーツを着て、鞄を持ち、電車に乗った。

鞄の中には八通の封筒。

重さは相変わらずあった。
けれど、昨日までのように肩を沈ませるだけの重みではなかった。

それは、持っていくべき荷物の重さだった。

駅へ向かう道で、玲は周りを見た。

本当に見た。

雨上がりのアスファルト。
排水溝のそばに残った小さな水たまり。
そこに映る電線。
コンビニの看板の赤と緑。
自転車の車輪に付いた泥。
傘を畳む人の手。
濡れた植え込みの葉。

世界には、まだ色があった。

色が戻ったのではない。

最初からあったのだ。

玲が見ていなかっただけで。

電車の窓に、自分の顔が映る。

寝不足で、ひどい顔をしている。
目の下のクマは濃く、髪も少し乱れていた。

でも、その顔は昨日までより少しだけ生きて見えた。

会社に着くと、上司が声をかけてきた。

「体調、大丈夫か」

玲は少し考えた。

いつものように「大丈夫です」と答えようとして、やめた。

「まだ万全じゃないです」

自分でも驚くほど、素直な声だった。

上司は一瞬だけ意外そうな顔をした。

「そうか。無理すんなよ」

「はい。ただ、昨日止めてた分は今日中に戻します」

「頼む」

それだけだった。

世界は変わらない。

本音を一つ言ったからといって、劇的に何かが救われるわけではない。
上司が急に玲の人生を理解してくれるわけでもない。
会社の仕事がなくなるわけでもない。

けれど、玲の喉の奥に張っていた根が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。

午前中、玲はクライアント向けのコピーを書いた。

昨日まで苦しんでいた案件だった。

希望感を追加。
前向きに。
明日から頑張ろうと思えるように。

その指示は、少し前まで空っぽに聞こえていた。

だが今朝は違った。

希望とは、綺麗な言葉を足すことではない。
闇をなかったことにすることでもない。
雨をすぐに止ませることでもない。

雨の中にいる人が、それでも一歩先に光があるかもしれないと思える余白を残すこと。

玲はそう思った。

資料の導入文を書き直す。

うまくいかない日が続くと、未来まで灰色に見えることがあります。
けれど、止まった時間の中にも、まだ小さな変化は残っています。
それを見つけることから、次の一歩は始まります。

玲は、画面の文章を見た。

仕事のコピーだった。

商品を売るための文章だった。

でも、以前より嘘が少ない気がした。

昼休み、玲は昨日と同じ喫茶店に入った。

窓際の席に座り、ホットコーヒーを頼む。

雨は止んでいる。

窓の外には、昨日赤い傘を差していた女の子はいない。
代わりに、歩道の水たまりに空の色が映っていた。

青ではない。

灰色と白の混ざった色。

それでも、昨日より明るい。

玲はスマートフォンのメモを開いた。

まだ書きたい。
でも、何を書けばいいのか分からない。
灰色の街に、赤い傘が一つ浮いていた。
終わりを書くのが怖い。けれど、終わらせないまま生きる方がもっと怖い。

その下に、新しく書いた。

灰は、空白ではない。

それから、少し考えてもう一行足した。

燃えたものがあった証拠であり、次に育つものの土でもある。

書いた瞬間、胸の奥に小さな熱が灯った。

玲はコーヒーを飲んだ。

温かい。

苦い。

けれど、昨日よりおいしいと思った。

店のドアの鈴が鳴った。

ちりん。

玲は反射的に顔を上げた。

黒衣の人物はいなかった。

入ってきたのは、年配の女性だった。
傘を畳み、店員に軽く会釈している。

玲は少しだけ肩の力を抜いた。

黒衣の人物は、今日は現れないのかもしれない。

そう思った直後、窓の外に目が行った。

向かいの歩道に、黒い影があった。

人影のようにも、街路樹の影のようにも見える。
長く、細く、雨上がりの光の中で薄く伸びている。

その影の先に、小さな金色の光が落ちていた。

玲が瞬きをすると、影も光も消えていた。

玲は窓を見つめた。

怖くはなかった。

むしろ、見届けられているような気がした。

午後、会社に戻ると、玲は淡々と仕事を進めた。

以前より劇的にできるようになったわけではない。
ミスもある。
眠気もある。
焦りもある。

それでも、心の奥に小さな火がある。

寒さを完全に追い払うほどではない。
部屋を燃やすほど激しくもない。
ただ、手をかざせば少し温まるくらいの火。

それで十分だった。

夜、部屋に戻ると、玲はすぐに机に向かった。

八通の封筒を並べる。

一通目から順番に、白い紙を取り出していく。

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