郵便鞄にしては細く、楽器ケースにしては静かで、棺にしては軽い。
黒衣の人物は、玲を見ると深く一礼した。
「終わりを、お届けに参りました」
その声は、思っていたより柔らかかった。
玲は、何を言えばいいか分からなかった。
誰ですか。
何ですか。
なぜ自分に。
あの封筒は何なのか。
あなたは夢なのか。
現実なのか。
聞きたいことはいくらでもあった。
けれど口から出たのは、別の言葉だった。
「終わりました」
黒衣の人物は、少しだけ顔を上げた。
目元は見えない。
けれど、玲にはその人物が微笑んだように感じた。
「それは、ようございました」
玲は振り返った。
机の上の九通の封筒が見える。
「小説を、最後まで書きました」
「存じております」
「読んだんですか」
「いいえ」
黒衣の人物は静かに答えた。
「見届けただけでございます」
その言葉に、玲の胸が詰まった。
見届ける。
読まれることとは違う。
評価されることとも違う。
褒められることとも違う。
ただ、終わるまでそこにいてくれること。
玲は、自分がそれをずっと欲しかったのだと気づいた。
誰かに認められたかったのではない。
いや、もちろん認められたかった。
本になりたかった。
読まれたかった。
才能があると言われたかった。
けれど、そのもっと奥で。
自分が書き始めた物語を、終わりまで見届けてほしかった。
途中で置き去りにした登場人物たちを。
夢を閉じ込めた部屋を。
腐りかけていた未練を。
声を失くした自分を。
誰かに、これは確かにあったのだと見てほしかった。
玲は黒衣の人物を見た。
「あなたは、何をしに来たんですか」
「終わりを、お届けに」
「それは、俺を終わらせるってことじゃないんですよね」
黒衣の人物は、ゆっくりと頷いた。
「終わりとは、消すことではございません」
その声は、夜明け前の鐘のようだった。
「次の物語のために、場所を空けることでございます」
玲は黙って聞いていた。
「あなたは、古い物語を終わらせました。ですから、次の場所が要ります」
黒衣の人物は、肩の鞄を軽く持ち上げた。
「そのために、少々、お片づけを」
玲は部屋の中へ通した。
不思議と、もう怖くなかった。
玄関を開けたまま、黒衣の人物が部屋へ入る。
その足音はしなかった。
六畳にも満たない狭い部屋に、黒衣の人物が立つと、そこだけ小さな劇場のように見えた。
机の上には九通の封筒。
黒衣の人物は、その前に立った。
一通ずつ、封筒を手に取る。
その所作は、手紙を扱うというより、遺骨を拾うように丁寧だった。
「開けなかったもの」
一通目。
「湿気を吸った未練」
二通目。
「腐りかけた夢」
三通目。
「根を張った言葉」
四通目。
「灰色の部屋の冬」
五通目。
「押し寄せた終わり」
六通目。
「鎖に繋がれた火」
七通目。
「灰の中の種」
八通目。
そして九通目。
黒衣の人物は、白紙を見た。
「これから書かれるもの」
玲は小さく言った。
「九通目は、白紙だった」
「はい」
「何でですか」
黒衣の人物は白紙を机に戻した。
「最後の手紙は、配るものではありません」
「じゃあ、何なんですか」
「受け取った者が、書くものでございます」
玲は白紙を見た。
何も書かれていない紙。
けれどそこには、確かに何かがある。
これから。
その言葉の重み。
黒衣の人物は、鞄を開けた。
中から、小さな黒い皿を取り出した。
灰皿にも見える。
香炉にも見える。
祭具にも見える。
次に、細い蝋燭。
黒ではなく、白い蝋燭だった。
そして、古いマッチ箱。
黒衣の人物は机の中央に皿を置き、蝋燭に火をつけた。
小さな炎が灯る。
その炎は、七通目の夜に玲がライターでつけた火とは違っていた。
原稿を焼きたいという衝動の火ではない。
静かに、何かを見送るための火。
黒衣の人物は、九通の封筒を玲の前に並べた。
「燃やすものを、お選びください」
玲は息を止めた。
「原稿は燃やしません」
「ええ」
「夢も」
「ええ」
「俺自身も」
黒衣の人物は、わずかに頷いた。
「ええ」
玲は机の上を見た。
九通の封筒。
九枚の白い紙。
古い原稿。
ノートパソコン。
そして、新しく作ったフォルダ。
ラグナロク。
玲は引き出しを開けた。
中から、付箋とペンを取り出す。
小さな付箋に、一つずつ言葉を書いた。
どうせ無理だ。
今さら遅い。
才能がない。
恥をかくくらいなら書かない方がいい。
終わらせなければ、失敗したことにはならない。
夢を見た自分が悪い。
普通になれなかった自分が悪い。
もう遅い。
俺の物語には価値がない。
書きながら、手が震えた。
それらは玲が長い間、自分に与え続けてきた呪いだった。
黒衣の人物は黙って見ていた。
急かさない。
慰めない。
ただ、そこにいる。
玲は書き終えると、付箋を一枚ずつ黒い皿に置いた。
白い蝋燭の火に近づける。
最初の付箋に火がついた。
どうせ無理だ。
文字が黒く縮れていく。
紙が燃える。
炎は小さい。
けれど玲の胸の奥で、何かが大きく揺れた。
今さら遅い。
燃える。
才能がない。
燃える。
恥をかくくらいなら書かない方がいい。
燃える。
終わらせなければ、失敗したことにはならない。
燃える。
一枚ずつ。
古い結末が、灰になっていく。
玲は涙をこらえなかった。
涙が頬を伝う。
悲しいのではない。
悲しいだけではない。
悔しい。
怖い。
恥ずかしい。
でも、少しだけ軽い。
全部燃やし終えたとき、黒い皿には小さな灰が残った。
黒衣の人物は、その灰を見て言った。
「捨ててはなりません」
玲は顔を上げた。
「なぜ」
「そこに、次の物語が混ざっておりますので」
八通目の言葉。
灰の中に、次の物語が混ざっています。
玲は小さく頷いた。
黒衣の人物は、九通の封筒を見た。
「封筒は、こちらでお預かりいたします」
「どこへ持っていくんですか」
「終わったものの場所へ」
「そんな場所があるんですか」
黒衣の人物は答えなかった。
ただ、九通の封筒を丁寧に重ねた。
その動作を見ていると、玲は不思議な感覚になった。
この九日間の恐怖が、一冊の本のように綴じられていく。
黒衣の人物は、九枚の白い紙だけを机に残した。
一通目から八通目までの言葉が書かれた紙。
そして九通目の白紙。
「これは?」
「あなたのものです」
黒衣の人物は言った。
「忘れないために」
玲は九枚の紙を見た。
呪いの手紙のように思えていたものが、今は別のものに見えた。
地図。
あるいは、通過してきた夜の記録。
黒衣の人物は、九通の封筒を鞄にしまった。
鞄の口が閉じる。
それだけで、部屋の空気が少し軽くなった。
「もう、届かないんですか」
玲は聞いた。
黒衣の人物は、少し考えるように沈黙した。
「同じ封筒は」
同じ封筒は。
玲はその言い方に、不安と、奇妙な納得を覚えた。
人生には、これからも終わりが届くのだろう。
別れ。
失敗。
喪失。
挫折。
諦めなければならないもの。
変わらざるを得ないもの。
終わりは、一度きりではない。
ただ、次に届いたとき、自分はもう一通目の朝とは違う。
少なくとも、そう思いたかった。
黒衣の人物は玄関へ向かった。
玲はその背中を見た。
郵便屋には見えない。
やはり、どこかの終末から来た語り部のようだった。
「待ってください」
黒衣の人物が足を止める。
玲は言った。
「俺、これからどうすればいいんですか」
黒衣の人物は振り返らなかった。
「お書きください」
「何を」
「次の物語を」
「うまく書けるか分からない」
「存じております」
「誰にも読まれないかもしれない」
「あり得ることでございます」
「また、止まるかもしれない」
「それもまた、あり得ることでございます」
玲は笑いそうになった。
ずいぶん正直な答えだった。
救いの言葉ではない。
成功の保証でもない。
だが、それでよかった。
黒衣の人物は続けた。
「それでも、雨は降ります」
玲は黙って聞いていた。
「雨が降れば、濡れます。足元も悪くなります。空も暗くなります」
黒衣の人物の声は、静かに部屋へ染み込む。
「けれど、雨の後にしか現れない色もございます」
玲は窓の外を見た。
雲の隙間から、光が落ちている。
遠くの空に、薄い虹のようなものが見えた。
本物の虹かどうかは分からない。
光の加減かもしれない。
ビルのガラスの反射かもしれない。
玲の目がそう見たかっただけかもしれない。
それでも、確かに色があった。
黒衣の人物は言った。
「闇の向こうに光があるのではありません」
玲は振り返った。
「闇を通った者だけが、光の輪郭を知るのでございます」
その言葉のあと、部屋に静けさが降りた。
玲は、何も言えなかった。
黒衣の人物は、玄関の扉を開けた。
朝の光が廊下から入る。
その黒い背中が、光の中で少し薄く見えた。
「では」
黒衣の人物は一礼した。
「次の終わりで、お会いすることもございましょう」
「会いたいような、会いたくないような」
玲がそう言うと、黒衣の人物は初めて、かすかに笑った気がした。
「それが健やかでございます」
ちりん。
鈴の音がした。
玲が瞬きをしたとき、黒衣の人物はもういなかった。
廊下には誰もいない。
ただ、朝の光だけがあった。
玲はしばらく玄関に立っていた。
やがて扉を閉め、部屋に戻る。
机の上には、九枚の白い紙。
黒い封筒はない。
黒い皿の中には、小さな灰。
白い蝋燭の火は、まだ静かに揺れている。
玲は、九通目の白紙を手に取った。
そこにペンで書いた。
これは破滅の物語ではない。
書いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
その一文は、『四畳半銀河』の続きではなかった。
新しい物語の最初の一文だった。
玲はノートパソコンの新しいフォルダを開いた。
ラグナロク。
新規ファイルを作る。
タイトルを入れる。
ラグナロク
そして、白紙に書いた一文を打ち込んだ。
これは破滅の物語ではない。
カーソルが、その先で点滅している。
次の言葉を待っている。
玲は窓を開けた。