玲は椅子に座ったまま、うとうとした。
夢と現実の境目で、部屋の空気が変わった。
床に置いた原稿が、風もないのにめくれる。
カーテンが膨らむ。
窓は閉まっている。
天井の染みは、昨日よりはっきり枝になっていた。
その枝が、壁を這い、床へ伸びる。
押し入れの奥から、低い音がした。
どくん。
どくん。
終末の鼓動。
玲は目を開けようとした。
けれど身体が動かなかった。
部屋の四隅に、影が立っていた。
人影ではない。
大きすぎる。
天井に頭が届くほどの影。
肩幅の広い影。
腕の長い影。
岩でできた人間のような影。
凍った息を吐く影。
火を抱えた影。
巨人。
そんな言葉が浮かんだ。
北欧神話で読んだことがある。
神々と戦う者たち。
世界の終わりに押し寄せる軍勢。
だが、玲の部屋に現れた巨人たちは、神話の挿絵のようではなかった。
一体は、未返信のメールでできていた。
件名が鱗のように重なり、赤い未読マークが目のように光っている。
一体は、請求書と契約書でできていた。
期限、金額、注意書き、印鑑欄。
それらが皮膚のように貼りついている。
一体は、誰かの言葉でできていた。
まだ小説書いてるの?
才能ある人は若いうちに出てくるよね。
普通に働いた方がいいよ。
夢追えるのって余裕ある人だけでしょ。
三十なら現実見ないと。
一体は、玲自身の言い訳でできていた。
忙しいから。
疲れているから。
今はタイミングじゃないから。
ちゃんと準備してから。
もう少し落ち着いたら。
どうせ無理だから。
今さらだから。
巨人たちは、部屋の壁を押していた。
狭い部屋が、さらに狭くなる。
机が軋む。
本棚が震える。
パソコンの画面が揺れる。
床の原稿が潰れそうになる。
玲は叫ぼうとした。
声は出た。
「やめろ」
その声は小さかった。
だが、確かに自分の声だった。
巨人たちは止まらない。
部屋は押し潰されようとしている。
そのとき、机の上の六通の黒い封筒が、一斉に震えた。
かさかさと。
羽音のように。
紙が何かを告げるように。
そして、どこか遠くで鈴が鳴った。
ちりん。
巨人たちの動きが止まる。
部屋の扉の前に、黒衣の人物が立っていた。
いつからそこにいたのか、玲には分からなかった。
喪服のような黒。
祭服のような黒。
夜そのものを縫い合わせたような衣。
帽子の影か、ヴェールの影か、顔は見えない。
黒衣の人物は、巨人たちを見上げた。
恐れている様子はなかった。
ただ、見ていた。
終わりが近づく様子を、ただ見届ける者のように。
「終わりは、押し寄せるものではございません」
その声は静かだった。
玲の部屋の中なのに、遠い聖堂の奥から響くようだった。
「終わりは、本来、迎えに行くものです」
巨人たちの身体が、少しずつ崩れ始めた。
未読メールの鱗が剥がれる。
請求書の皮膚が破れる。
誰かの言葉が、文字だけになって床に落ちる。
玲自身の言い訳が、煙のように薄くなる。
「逃げ続ければ、終わりは軍勢になります」
黒衣の人物は、玲の方を見た。
顔は見えない。
けれど、その視線だけが分かった。
「向き合えば、ただの扉でございます」
玲は目を覚ました。
部屋は静かだった。
巨人はいない。
黒衣の人物もいない。
ただ、床の原稿が少しだけ散らばっている。
カーテンがわずかに揺れている。
そして机の上の六通の封筒が、きちんと並んでいる。
玲は深く息を吐いた。
夢だった。
だが、夢で終わらせられないものがあった。
玲はパソコンの前に座った。
画面には、書きかけの続きを待つ白い余白。
玲は書いた。
雨は、部屋の中のものを少しずつ洗い流していた。
埃を。
古い言い訳を。
誰にも読まれなかった手紙を。
そして、彼が終わらせることを恐れていた物語の輪郭を。
今度は、少し続いた。
三行。
四行。
五行。
うまいかどうかは分からない。
でも、玲は書いていた。
夕方までに、原稿は二ページ進んだ。
たった二ページ。
それでも玲にとっては、十年分の距離だった。
夜になって、会社から何度か連絡が来た。
玲は最低限だけ返信した。
明日対応します。
ご迷惑をおかけします。
罪悪感はあった。
けれど、その下に別の感情があった。
怖い。
終わりを書くのが怖い。
自分の夢に、改めて触れるのが怖い。
この物語がつまらないものだと分かるのが怖い。
でも、それ以上に。
終わらせないまま、自分が終わっていくことの方が怖かった。
玲は、六通目の白い紙を机の上に置いた。
終わらせなかったものが、あなたを終わらせに来ます。
その隣に、スマートフォンのメモを開いて置く。
まだ書きたい。
でも、何を書けばいいのか分からない。
灰色の街に、赤い傘が一つ浮いていた。
玲はそこに、新しく一行を加えた。
終わりを書くのが怖い。けれど、終わらせないまま生きる方がもっと怖い。
書いた瞬間、部屋の寒さが少し和らいだ。
天井の枝は消えていない。
封筒も消えていない。
終末の鼓動も、遠くで鳴っている。
どくん。
どくん。
だがそれは、玲を追い詰めるだけの音ではなくなっていた。
夜が深くなった頃、玲はベッドに入った。
眠る前に、机の上の六通の封筒を見た。
明日、七通目が届く。
そう思うと、身体の奥が強張った。
ここまで来て、玲には分かっていた。
黒い封筒は、ただ玲を怖がらせるために届いているのではない。
何かを終わらせるために届いている。
そして、その終わりは近い。
その夜、玲は夢の中で、灰の大地に立っていた。
空は赤黒く、遠くで雷が鳴っている。
地面には、燃え残った紙が無数に散らばっている。
一枚拾うと、それは『四畳半銀河』の原稿だった。
文字は半分焼けている。
けれど、まだ読める。
この部屋には、銀河がある。
玲は焦げた紙を握りしめた。
遠くで、何かが鎖を引きずる音がした。
重く、低く、地面を削るような音。
じゃら。
じゃら。
玲は振り返った。
灰色の地平線の向こうに、巨大な影があった。
狼。
そう思った瞬間、影の奥で牙が光った。
月より白く、刃より鋭い牙。
それは玲を見ていた。
怒りでも、憎しみでもなく、もっと古い飢えを抱えた目で。
玲の足元に、七通目の黒い封筒が落ちていた。
宛名には、まだ何も書かれていない。
ただ、封筒の黒い表面に、うっすらと牙の跡のような裂け目が走っていた。
玲は目を覚ました。
朝だった。
喉が乾いていた。
部屋の空気は静かだったが、どこか焦げた匂いがする。
玲はベッドから起き上がり、玄関へ向かった。
郵便受けに手を入れる。
黒い封筒があった。
七通目。
それは重くなかった。
むしろ、これまでで一番軽かった。
だが、その軽さが怖かった。
中が空なのではない。
何かが、もう外へ出てしまった後のような軽さだった。
宛名には、こう書かれていた。
自分を燃やそうとした者 様
玲は、その場で動けなくなった。
封筒の奥から、獣の低い息遣いが聞こえた気がした。