小説ラグナログ

終末の神話

届いた黒い封筒が、忘れようとしていた記憶を呼び戻す。紫の傘を差した少女との出会いが、燃え残っていた過去と僕を向き合わせる。世界樹が軋むように、終末は破滅ではなく、次の芽吹きの始まりだった。

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第五章 灰色の部屋に住む者

五通目の封筒を手にしたとき、玲は指先に痛みを覚えた。

冷たい、というより、凍っている。

黒い封筒の表面には、薄く白い曇りが浮かんでいた。

霜のようにも、灰のようにも見えた。

六月の朝だった。

アパートの廊下は湿っていて、空気は重い。

どこかの部屋から味噌汁の匂いがして、下の道路ではトラックがバックする音がしている。

それなのに封筒だけが、真冬から届いたもののようだった。

玲は封筒を両手で持った。

灰色の部屋に住む者 様

宛名を読んだ瞬間、玲の部屋の中が目に浮かんだ。

曇った窓。

洗っていないマグカップ。

積まれた本。

床に置いたままのコンビニ袋。

押し入れの前に出した段ボール。

机の上の黒い封筒。

古いノートパソコンの白い画面。

灰色の部屋。

確かに、そうだった。

壁紙は白のはずだった。

カーテンも、昔は淡い生成りだった。

机も、ベッドのシーツも、棚も、それぞれ色があったはずだった。

けれど、いつの間にかすべてが灰色に見えるようになっていた。

汚れているからではない。

古いからでもない。

玲自身の目が、色を受け取らなくなっていた。

部屋に戻ると、空気が昨日より冷えていた。

エアコンはついていない。

窓も閉まっている。

玲は封筒を机の上に置いた。

五通の黒い封筒が並ぶ。

一通目から四通目までは、机の上に小さな夜を置いたように見えていた。

だが五通目が加わると、夜ではなく、冬が来たようだった。

机の周りだけ、空気の色が薄くなる。

玲は息を吐いた。

白くはならなかった。

けれど、喉の奥が冷えた。

封筒の蝋を割る。

黒い蝋は固く、昨日よりさらに冷たい。

指で触れると、皮膚が少し張りつくような感覚があった。

中には、白い紙が一枚。

玲は開いた。

そこには、こう書かれていた。

部屋が寒いのは、冬のせいではありません。

玲はその一行を見つめた。

寒い。

確かに寒かった。

けれど、季節は冬ではない。

玲が寒いと感じているのは、部屋の温度ではない。

会社にいても、電車にいても、コンビニの明るい棚の前に立っていても、同じ冷たさがあった。

人と話しているのに遠い。

笑い声を聞いても遠い。

街の灯りを見ても遠い。

自分の生活を、自分のものとして感じられない。

玲は、いつも薄いガラスの向こう側から世界を見ていた。

そのガラスは透明だったから、誰にも気づかれなかった。

玲自身でさえ、気づかないふりをしていた。

部屋が寒いのは、冬のせいではありません。

「じゃあ、何のせいだよ」

玲は呟いた。

答えはなかった。

ただ、机の上の五通の封筒が、沈黙している。

玲は会社へ行く支度をした。

今日は休みたかった。

だが、休む理由がない。

熱があるわけではない。

咳が出るわけでもない。

身体が動かないほどではない。

ただ、心の中に冬が来ている。

それを理由に会社を休む方法を、玲は知らなかった。

スーツに袖を通し、ネクタイを締め、鞄を持つ。

鞄の中には、五通の黒い封筒。

持っていく必要などない。

それでも部屋に置いていくのが怖かった。

見えないところで、封筒たちが何かを始める気がした。

駅へ向かう道で、小雨が降り始めた。

傘を差すほどではない。

細かい雨が、肌にまとわりつく。

玲は空を見上げた。

雲は低く、街を灰色に塗っている。

通勤電車の窓にも、灰色の景色が流れていく。

ビル。

電線。

看板。

マンションのベランダ。

工事現場のシート。

濡れたアスファルト。

どれも色が薄い。

人々の服も、顔も、スマートフォンの光も、すべて灰色の膜の向こうにあった。

玲は吊革につかまりながら、昔のことを思い出していた。

大学生の頃、街はもっと色があった。

深夜のコンビニの青白い光。

ファミレスのオレンジの照明。

古本屋の黄ばんだ棚。

駅前のネオン。

雨上がりのアスファルトに映る信号の赤。

友人の部屋で飲んだ安い酒の缶の銀色。

徹夜明けの空の薄紫。

どれも、物語になると思っていた。

世界は素材で溢れていた。

見たものすべてが、何かの比喩になった。

聞こえた言葉すべてが、登場人物の台詞になる気がした。

それがいつからか、ただの情報になった。

駅名。

時刻。

乗り換え。

業務連絡。

請求金額。

既読。

未読。

納期。

修正。

世界は、意味を失ったのではない。

玲が、意味を拾うことをやめたのだ。

会社に着くと、室内は暖房でも冷房でもない微妙な空調で満たされていた。

誰かが「蒸し暑いですね」と言った。

別の誰かが「雨だからですかね」と答えた。

玲だけが寒かった。

デスクに座り、パソコンを開く。

メール。

チャット。

タスク管理ツール。

スプレッドシート。

資料。

いつもの画面が並ぶ。

玲は仕事に取りかかった。

午前中、玲はほとんどミスをしなかった。

昨日より集中できているように見えた。

返信も早く、資料の修正も進んだ。

会議でも最低限の発言をした。

だが、それは集中ではなかった。

凍っているだけだった。

感情が動かない分、作業だけが淡々と進む。

悲しくない。

嬉しくない。

焦らない。

怒らない。

ただ、目の前のものを処理する。

玲は、自分が機械のようになっていく感覚を覚えた。

それは一見、楽だった。

何も感じなければ、傷つかない。

期待しなければ、失望しない。

熱くならなければ、燃え尽きない。

灰色の部屋に住む者。

それは、玲の部屋だけではなかった。

玲自身が、灰色の部屋になっていた。

昼休み、玲は会社近くの喫茶店に入った。

雨のせいか、店内は空いていた。

窓際の席に座り、ホットコーヒーを頼む。

カップを両手で包んでも、指先はなかなか温まらなかった。

玲は鞄から五通目の白い紙を取り出した。

部屋が寒いのは、冬のせいではありません。

その一文の下に、今日は何も滲んでいない。

玲は紙を裏返した。

白紙。

そこに、何かを書きたくなった。

ペンを持っていなかったので、スマートフォンのメモアプリを開く。

昨日書いた一行が残っている。

まだ書きたい。

玲は、その下に続けて打った。

でも、何を書けばいいのか分からない。

画面に表示された二行を見て、玲は少しだけ息を吐いた。

それだけのことだった。

誰に見せるわけでもない。

小説でもない。

立派な文章でもない。

けれど、書いた。

まだ書きたい。

でも、何を書けばいいのか分からない。

それは、いまの玲の正直な場所だった。

嘘のない場所。

玲はコーヒーを一口飲んだ。

苦かった。

そして、少しだけ温かかった。

窓の外では、雨が強くなっていた。

歩道を行く人々が傘を差している。

透明なビニール傘。

黒い傘。

紺の傘。

赤い傘。

玲は、赤い傘に目を留めた。

小さな女の子が、母親らしき人と手を繋いで歩いている。

女の子の傘だけが、雨の街の中で鮮やかだった。

赤。

玲は久しぶりに、その色を綺麗だと思った。

本当に久しぶりだった。

雨の灰色の中で、赤い傘だけが灯火のように見える。

玲はスマートフォンのメモに、さらに一行足した。

灰色の街に、赤い傘が一つ浮いていた。

書いてから、玲はその文を見つめた。

何でもない描写だ。

けれど昔の自分が戻ってきたような気がした。

世界をただ処理するのではなく、見る。

色を拾う。

感じたことを、言葉にする。

そんな当たり前のことを、玲は長い間忘れていた。

そのとき、店のドアに付いた小さな鈴が鳴った。

ちりん。

玲は顔を上げた。

店に入ってきたのは、黒いコートを着た背の高い人物だった。

季節外れの服装だった。

六月の雨の日に、足首まである黒いコート。

帽子を深くかぶり、顔はよく見えない。

片手には、細長い黒い鞄を提げている。

郵便鞄にしては細い。

楽器ケースにしては短い。

棺にしては軽い。

玲は息を止めた。

公園で見た影。

夢の中の黒衣の人物。

世界樹の根元に立っていた存在。

それと同じ気配がした。

黒い人物は、店内を見回すことなく、カウンターへ向かった。

店員が何かを尋ねる。

黒い人物は静かに首を振ったようだった。

声は聞こえない。

やがて、その人物は何も注文せずに店を出た。

ドアの鈴がもう一度鳴る。

ちりん。

玲はすぐに窓の外を見た。

黒いコートの人物は、雨の歩道に立っていた。

傘を差していなかった。

雨に濡れているはずなのに、黒い服の表面には一滴の水も残っていないように見えた。

その人物は、ほんの一瞬だけ玲の方を見た。

顔は見えない。

だが、玲には分かった。

見られている。

いや、見届けられている。

黒い人物はすぐに背を向け、雨の中を歩き出した。

人混みに紛れるわけでもなく、角を曲がるわけでもなく、ただ灰色の雨の中に溶けるように消えた。

玲はしばらく窓を見つめていた。

テーブルの上のコーヒーは、まだ温かかった。

白い紙を見る。

部屋が寒いのは、冬のせいではありません。

玲は小さく呟いた。

「じゃあ、火をつければいいのか」

自分で言って、ぞっとした。

火。

三通目の言葉が蘇る。

腐った夢は、よく燃えます。

燃やす。

何を。

原稿か。

夢か。

自分か。

玲はその考えを慌てて振り払った。

店を出る頃、雨はさらに強くなっていた。

玲は傘を持っていなかった。

コンビニで買うこともできたが、なぜかそのまま歩いた。

雨がシャツを濡らす。

髪を濡らす。

鞄に落ちる。

それでも、鞄の中の黒い封筒だけは濡れていない気がした。

会社に戻ると、玲の様子を見た後輩が驚いた。

「九枝さん、びしょ濡れじゃないですか」

「傘、忘れた」

「タオルありますよ」

「ありがとう」

受け取ったタオルは白かった。

白いはずなのに、玲には薄い灰色に見えた。

午後の仕事は、奇妙なほど静かに進んだ。

玲の中で、何かが少しずつ変わっている。

それは希望ではない。

まだ、そんな明るい言葉ではなかった。

むしろ、氷の下で水が動き始めたような感覚だった。

見えない。

音もしない。

けれど、完全には凍っていない。

夜、部屋に戻ると、玲は濡れたスーツをハンガーにかけた。

部屋はやはり寒かった。

五通の封筒を机に並べる。

古いノートパソコンを開く。

メモアプリに書いた三行を、パソコンに打ち直した。

まだ書きたい。

でも、何を書けばいいのか分からない。

灰色の街に、赤い傘が一つ浮いていた。

それだけで、部屋の温度がほんの少し上がった気がした。

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